文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年7月29日】内に向けて探して誤りを知って、それを改め、絶えず教養の境地を高めることは、大法弟子のあるべき姿です。
師父は次のように説かれました。「私は言ったことがありますが、大法弟子は間違いがあっても構いません。堂々と自分の過ちを認め、悔い改め、しっかり行いたいという姿を皆さんに見せ、それなら誰もがあなたを敬服するのです。いつも隠そうとしたり、ごまかそうとしたりして、これらの人心はますます複雑になり、強くなります。さらに、あなたの修煉はまったくできておらず、学習者はどのように感じるのですか? 学習者はこれらのことをどのように見るのですか? 神はどのように見るのですか? 師父は将来、どのようにあなたに対処するのですか? 人を救い、生命を救うのは慈悲ある行動ですが、どうしても救うことのできない人がいます。どのような人ですか? 自らを大切にしない人は救われません」[1]
一部の同修は絶えず色の戒めを犯し、もっと悪いことを行った人もいます。しかし、彼らは過ちを隠し続け、悪事を暴き出さず、甚だしい場合は、正々堂々と嘘をつき、師父の写真の前で、自分の身の潔白を言い張っていました。もし本当に師を信じ、法を信じていれば、師父はいつでもどこでも私達のそばにおられることを思いだすでしょう。真の自分を見つめ直す勇気がなければ、そして実際に修めなければ、内にむけて探しても、いいかげんなものに過ぎず、本質的な問題を避け、自分で自分を騙しているのではないでしょうか。明らかに自分が間違っているにもかかわらず、「師父がこの場におられても、俺はこう話すのだ」などと言う人もいます。人々はよく、「湛々たる空を欺いてはならず、念を起こす前に神はすべてお見通しだ」、また、「密室でささやく言葉も天は雷のように聞く」と言っています。実は、嘘をついて、真実を覆い隠す時、師父を盾にして自分を弁護する時、師父の法身はとっくにあなたから離れて行かれるでしょう。この時、まだ、師と法を敬うと言えますか? やること為すことが真・善・忍に背いていれば、百回叩頭しても、師父が喜ばれることはありません。
私達の修煉は、真の自分と向かい合う勇気を持たなければなりません。間違うことは怖くなく、直せばいいのです。
実は、修煉の事はさて置き、よい人になるという観点から考えてもそうすべきではないでしょうか。孔子の弟子の顔帰は「敏于事,而慎于言,不迁怒,不二过」と言いました。それは、何かを行う時、態度が恭しく慎重で、口を修めて、他人に八つ当たりをせず、間違いを悔い改め、二度と同じ過ちを起こさないことを言います。私達の修煉も同じです。過ちを犯したあと、心と行動でそれを正すことが、最も大事なことではないでしょうか。
子貢は、「君子之過也,如日月之食焉,过也人皆见焉,更也人皆仰之」と言いました。君子が過ちを犯せば、まるで日食や月食のように、誰にでも見られているが、その過失を、真剣に正すならば、人々は以前と同様に彼を敬い慕う、という意味です。
孔子は「内省不疚,夫何忧何惧」、「见贤思齐焉,见不贤而内自省也」と言いました。つまり、「君子とは絶えず自分を反省し、他人の長所を見習って、自分の短所を補い、自分の行いを正しくして教養を深め、品格を鍛え磨いていく者だ」という意味です。孔子は、「桀紂は自分の過ちを認めないため、国を滅ぼし、商湯の周文王は自分の過ちを認め、悔い改め、国を繁栄させた」と言いました。孔子はまた「君子は人が過ちを指摘するのを聞いて喜び、小人は過ちを覆い隠す」とも言いました。過ちを覆い隠すということは、きれいな言葉を使って自分の過ちをごまかすことです。孔子は「論語」の中で、「过而不改,是为过也」と言いました。つまり「誤りを犯して、それを改めないことが、本当の過ちだ」という意味です。もし誤りを知りながら、悔い改めもせず、その上、故意に覆い隠し、甚だしきに至っては、指摘されると怒りを爆発させるならば、それは自分の尊厳を守るどころか、かえって人々に歯牙にもかけられないことになるでしょう。誤りを認める勇気を持ち、誤りを見つめ直し、そして断固として正すことこそ、正しい態度ではないでしょうか。南宋の陸九淵は「闻过则喜,知过不讳,改过不惮」と言いました。それは謙虚に意見を受けいれ、自分の過ちを隠さず、自分を欺かず、人をも騙さず、噂を恐れず、面目を失うのを恐れないことを言います。「左伝」の中には、「人は誰でも過ちを犯す。過ちを正すことができることほど素晴らしいことはない」と書かれています。
三国時代の官渡の戦いでは、本来、袁紹は曹操より強く、経験もあり、声望も高く、また地形と兵力においても、すべて優位に立っていました。彼の軍師の田豊は、曹操が兵法に長けており、戦術をめまぐるしく変化させるため、持久戦をやった方がよいと考えました。しかし、袁紹はそれを受け入れず、さらに、士気をかき乱すという罪名で、田豊を牢屋に入れました。結局、袁紹は強行して遠征し、惨敗して帰ってきました。その後、誤りを認めるどころか、田豊にあざ笑われるのを恐れ、田豊を獄中で処刑しました。メンツを重んじて権力を使い、過ちを犯しても改めないその態度は、袁紹の力を強大なものから弱くさせ、最後に再起不能に陥る重要な原因となりました。
誤ったことをした場合、謙虚に人の意見を聞き入れるか、それともごまかすか、それは人の精神的な境地と度量によるもので、その人の道徳的な教養水準の現れでもあります。残念なことに、多くの人は、誤りをごまかし、指摘されると、落ち込み、拒み、覆い隠し、怒ります。このようにするのはメンツを保ったように見えますが、しかし、過ちを改めるチャンスを失い、自分を高める機会を失ってしまうのです。もしそれによって、さらに大きな過ちを犯した場合、もっと大きな代価を払わなければなりません。それは愚かなことではないでしょうか? 本当の賢人は、自分の欠点と過ちに立ち向かう勇気を持ち、他人の批判を喜んで受け入れるのです。絶えず自分を反省し、自身の過ちを正し、次第に自分の教養と境地を高め、天地に恥じることのない良心的な人になって初めて、一人の完璧な人格を有する修煉者になるのではないでしょうか。
注:
[1]李洪志先生:『二〇一五年米国西部法会での説法』