日常生活で気づきにくい人を恨む心を修める
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年11月9日】最近、私は同修を救援するプロジエクトに参加しました。不当に強制連行された同修に難があるのを見て見ぬふりをしてはいけません。同プロジェクトの協調人たちは常に顔合わせし、一緒に学法したり、また他の同修たちと交流しました。不当に強制連行された同修を非難せず、ただ内に向かって探していましたが、無意識の内に日常生活で気づきにくい「人を恨む心」を見つけ出しました。

一、「人を恨む心」を見つける

 一度、我々協調人たちは同修を救援すると同時に、取り調べに加担した法曹機関の人たちに真相を伝えるため、迫害された同修の家族と話し合うことにしました。私たちは夜7時30分に市のある大通りの分岐点の東南の方角で、待ち合わせすることを約束しました。私は修煉してからある習慣を身につけています。それはつまり何事につけても、まず人のことを優先に考えることです。私はいつも約束の10分前に、約束場所で待っていました。その日も例外なく、約束時間より8分前に到着しました。私が着いてから少し経つと、もう1人の主要な協調人も到着しました。

 7時30分まで待っても、約束した他の2人の協調人と同修の家族は見当たりません。また20分待ちましたが、やはり彼女たちの姿は見えませんでした。私たちは何か他の用事で来られなかったと考え、もう少し待ってから帰宅しました。家についてから私は突然思い出しました。以前の私なら思わず同修が時間を守っていない、信用がない、私ともう1人の同修を無駄足にさせたと文句を言ったに違いありません。しかし、今日はただ待ち続けても、同修への文句を一言も言いませんでした。考えていたのは、来られない他の理由があったのかもしれないということだけでした。

 翌日、集団学法の時、私がこのことを言い出したら、彼女たちは「約束の時間通りに到着しましたよ。そこで街灯を設置している人たちと水遣りをしている水撒き車を見かけました」と話しました。「そうですね! 私達も見かけました。そこで1人の協調人があなた達を探しましたが見つかりませんでした」 「私たちにもあなた達が見えませんでした」とお互いに言いました。これは師父が私の「人を恨む心」を取り除いてくださったのだと私は悟りました。

二、至るところに「恨む心」がある

 「恨む心」は日常生活の中でいつでもどこでも存在しますが、我々はもう平気になって、気づきにくくなっています。例えば、

 1、運命が不公平だと思うこと。自分が農村に生まれたので、都市部の人たちのようにいろいろな福祉を受けることができないし、官職につくこともできない、自分の優れた能力を知ってくれる人もいないし、兵役に服することもできず、大学に行くことさえもできないなどと不平不満をこぼすこと。

 2、嫁姑間のトラブルで具体的な現れとしては、姑は嫁が親孝行をしないと不平に思い、嫁は姑が理不尽で自分に対して不公平で、他の兄弟の嫁には、自分よりも優しく接するのを見て不平不満に思うこと。

 3、仕事上では、上司は部下が頑張っていないと文句を言い、部下は上司が自分を重視していないと文句を言うこと。

 4、父子間では、父親は息子が遊びすぎだと怒り、息子は父親が自分に遊ぶ時間を与えないと思うこと。

 5、夫婦間では、妻は夫が酒を飲みマージャンをやり、家事をしないと恨み、夫は妻が自分に十分な自由時間を与えないと恨むこと。

 6、社会上では、庶民は社会の分配が不公平であり、中国共産党の中に腐敗した人がたくさんいると恨み、上層の人は貧しい人達を見て、衛生面が悪く、何事も程度が低く劣っていると軽蔑し、請願に来た人たちをならず者扱いし見下すこと。

 7、修煉している家族間では、片方の同修との間で、精進している家族の同修が自分の意見も聞かず北京に請願に行ったため、家族が迫害されたと恨み、請願に行った同修は、相手の家族が自分を理解してくれないと恨むこと。もう一つは、家族の中に真相を知らない人がいて、人を救うことに反対すれば、同修が家族を疎(うと)ましく思うこと。

 「恨む心」はこのようにどこにでもありますが、紙面の関係上ここでは一々言うことはせず、これくらいにしておきます。

三、修煉者は観念を変え 「恨む心」をなくすべき

 中国大陸では党文化の影響で伝統文化が大いに破壊されたので、人々は何事にも大まかであり、信用を重んぜず、何事につけてもまず相手に文句をすぐ言うなど「恨む心」はどこにでもあります。修煉を通じて向上してきた今、振り返って見るとほんとうに驚きます。恐れる心、嫉妬心、顕示心、歓喜心、憎む心、闘争心などなどの執着心に、私たちはよく気づき、ほとんど放下してきました。しかし、それに比べて「恨む心」を発見するのが遅くなっています。私は「恨む心」はすなわち「私心」だと思いますが、いつでも自分の事ばかり考え、思い通りにならない要素は、全部他人のせいにしています。

 師父は『轉法輪』の中で私たちに「本当に修煉するには、心に向かって、内に向かって修め、内に向かって探さなければならず、外に向かって探してはいけません」とおっしゃいました。先日、協調人たちは学法の時に、翌日の夜7時に某地で迫害されている同修の家族と会い、弁護士と今後どう相談するかを交流することにしました。私はまた早めに行き、もう1人の協調人も来ました。しかし、待っても待ってもその家族を連れてくる協調人が見当たりませんでした。 私は分岐点の街灯の下で待っていました。30分たっても彼女たちが来なくても、私は少しも「恨む心」を生じることなく根気よく待ちました。もう1人の協調人に十字路の街頭に沿って探すように言い、別の分岐点で彼女たちを見つけました。彼女たちは分岐点を間違えていました。私たちは互いに、にっこりと微笑み合ってこれからのことを共に話し合いました。 

 以上は、個人の認識で、不適当なところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をよろしくお願いいたします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/9/24/335418.html )
 
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