恨む心はどこから来ているのか?
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文/サンフランシスコの大法弟子

 【明慧日本2012年12月27日】最近、同修が不満と怨恨について特別に交流し、それを聞いた私はとても心を打たれました。自分自身を省みると、私にも時には非常に強い恨む心があることに気付きました。他人のやり方が自分の観念に合わない時、他人の言葉に刺激された時、他人から不当な扱いを受けたと思う時、私はよく不満と恨む心が生じてきます。場合によっては、その心が同修との関係や法を実証するプロジェクトにも悪影響を及ぼします。

 私達には同じ経験があると思いますが、何かの不和や衝突が過ぎれば、それが大した事ではなかった事に気付く一方、自分は事件当時、なぜ落ち着きを保てず、強烈に反応してしまったのか、事後また後悔したりします。私達の真の私にはこのようなマイナス的、強いて言えば魔性の物質はないはずですが、それなら、これはどこから来ているのでしょうか? 私は長い間困惑し、考えました。

 (一)数日前のある朝、私は目が醒める直前に、とてもはっきりとした夢を見ました。近い前世に、私はある生命をひどく傷つけました。その生命はずっと私を怨んでいます。そこで私が気付いたのは、多くの場合、私が他人に対して抱いている怨恨は、その生命の怨恨からきているのです。その生命はどうしても私の修煉を邪魔しようとしています。

 最近の個人的な観察から言えば、全ての人に当てはまらなくても、多くの同修にはある程度の不満や恨む心が現れ、これは偶然ではないと思います。歴史上、数限りない輪廻転生を経る過程で、私達は多くの生命を傷つけてきました。個人の理解では、彼らの私達に対する怨恨は、私達に現れている怨恨の由来の一つです。最近、特に目立つようになった原因の一つとして、一部の重要なプロジェクトが重要な段階にきており、それらは邪魔しようとしています。もう一つの原因は、法を正す時期が最後の最後にきており、多くの生命は急いで債務の取り立てと復讐をしようとしています。

 また、私達が精進している時、その生命達から伝わってくる不満は少なくなり、精進していなければ、現れてくる不満が多くなることにも気づきました。私の理解としては、私達が精進し円満成就できれば、師父は私達の歴史上の怨縁を善解して下さり、私達が精進していなければ、その生命達は自分の未来の福報に確信が持てなくなり、債務を取り立てに邪魔しに来ます。こういう時、師父も成す術がありません。一部の生命は「あなた方は以前発正念の時、あなた方を邪魔しさえしなければ、きちんと良い未来を用意してくださると言ったのに、今のあなた方の学法煉功、また発正念や真相を伝える状態を見ていると、こんなにいい加減にして、以前の約束を果たす術がなく、全てが嘘偽りになるのではありませんか?」と思うのです。こうしてその生命達は激しく邪魔をし、不満や業力を絶え間なく私達に加え、私達の恨む心を膨らませ、場合によっては病業の現象が現れることさえあります。

 私はこれを書いて、皆さんに一つの注意を喚起することができればと思っています。

 私達は本当に精進しなければならず、でなければ、師父に申し訳がなく、自分に申し訳がなく、今まで傷つけてきた生命にも申し訳がありません。そもそも私達は傷つけた生命達に負債があり、今回、それらが邪魔しに来た罪も、私たち自身が精進していないことに由来します。本当に真の修煉者として、身の回りの一切の物事に対処すれば、内に向けて探す事も含め、多くの難関を容易に乗り越えることができます。

 また、同修が「良い態度で接してくれない」と感じた時、それに抵抗せず、「真っ向から張り合う」ことをしてはいけません。それに正しく対処する時こそ、旧勢力が私達に按排した。師父が法を正すことの邪魔になるような、マイナス的な思惟(物質)や、やり方を取り除くことになります。

 (二)また、私達に現れている不満には、もう一つの出所があると思います。それは旧勢力から伝わってくる嫉妬心です。

 宇宙には様々な物質や生命が存在し、あなたがそれらの何かに符合すれば、その作用を受けることになります。旧勢力は大法弟子が法を得ること、そして師父があれほど寛容にして下さることに嫉妬し、不満に思っています。旧勢力が嫉妬を伝えてくるのも私達が精進していない時、内に向けて探さない時にしかできず、その言い訳としては、それをもって私達に向上させるためです。表面上、私達にはまだ人心が残っており、継続して心を静めて学法すれば、その作用を受けずに済み、修煉を怠り、彼らに符合すればその良くない作用を受け、執着が強くなっていきます。旧勢力の理に沿って考えれば考えるほど、自分が正しく思い、つい相手に抵抗したりあるいは逃避したりして、「法を実証すること」の効果も薄く、あるいは効果がなくなります。

 心に不平不満や恨む心がある時、していることも悪を実証してしまい、どうして法を実証出来ますか? 心に真・善・忍の念を抱き、初めて法の実証ができ、法の威力もあなたの身に現れてくるのではありませんか?

 個人的な認識ですので、ご参考になれば幸いです。妥当でない箇所があればご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/12/21/266776.html)
 
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