文/長春の大法弟子
【明慧日本2017年7月11日】(慶祝513明慧特別記事)
師父、こんにちは。
同修の皆さん、こんにちは。
私は古い弟子で、1992年9月に行われた長春第4期法輪功講習会に参加して以来、25年が経ちました。
修煉を始めた頃
私は以前から気功に対してとても興味を持ち、20世紀の70年代から気功に接触し始め、何でも試してみました。最初◯◯気功をやって、また華佗の五禽劇を学んだり、少林寺の一指禅を練習したり、その後仏教に帰依して、最後はしばらく道教や密教も学びました。多くのお金をかけていろいろな気功の本を買いました。焼香をして仏像を供え、呪文を唱えて魔よけの札を書くこともしました。当時の私は50歳あまりで、体はとても丈夫で、多少功能も持っていました。
長春勝利公園のサル山の近くで多くの気功団体が活動していました。当時、知り合いが私に法輪功を紹介し、佛家の功法だと言っていました。自分はすでに佛教に帰依し法名ももらったと私は思っており、知り合いの言葉を気に留めませんでした。当時、李洪志師父はサル山の東側で法輪功を教えられ、私も東側に密教を教えて、師父との距離は僅か20メートルでした。しかし、なんと、当時の私は法輪功と李洪志師父のことを知らず、見たこともありませんでした。縁がまだ熟していなかったのでしょうか?!
1992年7、8月のある日の朝、密教の練習を終えて勝利公園の正門(東門)を出た時、私は偶然に『中国法輪功』という本を1冊買いました。読んで、これこそ本物だ、気功の中で長年あれこれと探した挙句に、修煉の本物がここにあった、やっと見つけた! こんなに近くにあるのにどうして今日までずっと知らなかったのか、と思いました。そこで心を決めて密教の教えをやめて、一心に法輪功の修煉を始めました。それから、密教を練習した仲間のうち8割が法輪功に転じました。
1992年9月8日、勝利公園の南側にある省委員会の大講堂で長春第4期法輪功講習会が催されました。当時、師父は気功の形で法輪功を伝授されました。師父が先に説法されたあと、古い学習者らが煉功動作を演じ、師父は自ら新しい学習者の動作を直されました。動作を直しながら、師父は学習者の体を浄めてくださいました。師父は学習者の体の周辺をぐいっと上から下まで掴んで、外へ投げ出されました。
講習会の期間中のある日、ある重病の女性が大きな腹を支えながら舞台に上がりました。腹の中に大きい腫瘍があり、外見はまるで妊娠7、8カ月の様子でした。海外の病院まで行っても治療できなかったため、仕方なく法輪功を頼って来たようです。師父は女性の体に触れずに、体の近くで手を上から下へ振られました。すると、女性の腹はすぐ小さくなって、ズボンがもう少しで落ちるところでした。うみと血が女性の足元にぽたぽた滴り、地べたが広く濡れました。学習者らは驚いて悲鳴を上げながら拍手しました。師父は女性に舞台で少し歩いてみてと指示されました。それから、講習会のスタッフは舞台を掃除しましたが、前のほうに座っていた人たちは鼻を覆って「この匂いはあまりにも……」と言いました。
それは私が自分の目で見た光景です。師父が手を振られる時にどれだけの悪いものを消されたでしょうか、すごいことです! 今まで多くの気功師と接触してきたのですが、こんなにすごい功力を持つ人を初めて見ました!
師父の説法を聞いてから、法輪功は普通の気功ではなく、動作だけをやるのではなく、心性の修煉も重んじると分かりました。以前私がやったすべての気功は心性を重要視しませんでした。私は十数年も気功をやりましたが、多くの欠点が少しも直らず、人を罵ったり怒ったりしました。今回こそ心を修められると分かりました。師父が説法で言及された他の気功の中に現れる現象を、私はすべて自ら経験しました。私は以前の気功の本を全部処分しましたが、心の中から徹底的にそれらのものを除去するのは、もう少し時間がかかりました。
修煉を始めてから、私は家の近くの児童公園で煉功しました。人数が増えるに従って、1993年の春のある日、師父が自ら児童公園に来られて、広い場所を選んで空間を浄め、弟子を守るための覆いを下さいました。それからその煉功場はとても清らかになり、エネルギーはとても強く、新しい修煉者も続々と入ってきました。春夏秋冬、我々は煉功をずっと続け、たとえ除夜でも、夕食の後に児童公園に行って煉功をやりました。
初期のころ、みんなはまだ修煉の意味が深く分かっておらず、動作にとても工夫を凝らしました。師父はみんなに両足を組むための多くの方法を教えてくださいました。例えば、縄を使って足をくくること、高く上げた足を米袋で押さえること、ふだんから足を伸ばす努力をすることなど……。
当時、煉功するには苦しみに耐えなければならないことをみんな承知していました。第二功法には法輪を抱える動作が四つあり、私たちは一つずつの動作の時間を最初の5分から7分、10分、20分と伸ばし、煉功場の学習者全員がそのようにしました。私は更に一つの動作の時間を30分、40分と伸ばして、それを自慢げに師父に伝えました。しかし意外にも師父は私たちを褒められることなく、厳粛に「このようにすると、新しい学習者が恐れて去っていくのではないですか? 長く法輪を抱える動作をしたいなら自宅でやってください」と注意されました。法輪功が広く伝えられるにあたっては、すべての学習者の受け入れ能力を配慮しなければならないことを私たちは改めて認識しました。また、修煉において煉功動作は補助的な役割を果たし、学法して心を修めることこそ重要であると改めて分かりました。
師父について講習会に参加した時の体験
師父が伝法された初期のころ、つまり1992年9月~1994年8月の間に、私はまた省委員会大講堂で催された第5期講習会、吉林大学鳴放宮で催された第6期、第7期講習会、隣接のハルビン市で催された講習会にも参加して、警備、入場券販売、書籍と資料の販売などを担当しました。師父について複数の講習会に参加したおかげで、私は法理に対する理解をだんだん深め、いつの間にか心性が高まりました。その中で大法の素晴らしさを私の目に焼き付けたほか、伝法している間に師父が経験された苦難も近くで見ていました。
1994年5月に行われた長春市第7期講習会では、多くの奇跡が起こりました。
師父がかつて食糧供給会社に勤めておられた時の同僚・Aさんは、早くから法輪功を修煉していました。師父が『轉法輪』で挙げられた例の、「この前吉林大学で講習会を開いた時も、ある学習者が大学の正門を出て、自転車を押して道の真ん中に行ったら、二台の車がいきなり彼を挟み、今にもはねられそうになりましたが、彼はちっとも怖いと思いませんでした。こういうことに遭遇した時、ふつう誰も怖く思うことはありません。その瞬間に、車が止まり、何事も起こらなかったのです」は、Aさんに起きた実際の出来事です。あれは第7期講習会期間中に起きたことで、当時彼は2台の車にはねられておらず、自転車を歩道に押してから振り返ると、師父はまだ吉林大学の正門前に立って彼を見ておられました。その時、何が起きたか彼はまだ知らなかったのですが、後日、『轉法輪』が出版されて読んだ時に、師父の守りの下で自分は命の借りを返し生死の関を乗り越えたとやっと分かった、と私たちに話しました。
師父が地方での説法で言及された、長春の学習者が出遭ったあの交通事故を、私は目撃しました。その日、講習会に参加するために私は自転車に乗って東中華路に来た時、突然、1台のジープが後ろから猛スピードで来て、北へ曲がって人民広場の方向に行きました。ジープの前になんと1台の自転車が引っかかっていて、地面を擦って火花が出ていました! その日は小雨が降って地面は濡れていたのですが、それでも火花が出るとは、どんなに速いスピードだったか想像できますね。「きっと事故が起きたのだ」と私を含めた目撃者はみな思いました。
第7期講習会に参加するために来た3人家族はそのジープにはねられたと、後になって分かりました。酒を飲んだ運転手は人をはねてからも車を止めることなく、ずっと前進しました。人民広場のロータリーでやっと警官に止められた時、ジープの前にその自転車がまだ引っかかっていました。はねられた3人家族は新しい学習者で、その日は講習を受けるために自転車で移動して、ひどくはねられたのですが、3人とも無傷でした。
講習会期間中のある日、みんなが師父と記念写真を撮る時、ある60代の老人がいて、杖をついて椅子に座り、撮影を待っていました。師父は彼に「杖を捨てて、椅子もよそに持っていってください」と話されました。老人はゆっくりと立ち上がって、まず椅子をどこかに持っていって、そして杖を捨てました。彼は試しに左足を踏み出し、また右足を踏み出して、少し歩いてみました。撮影が終わって、彼は自力で階段を登って講堂に入り、講習会に参加しました。彼は高級エンジニアで、4年前から半身不随になっていたことを後になって我々は知りました。彼は師父を信じて、師父の言われた通りに行い、すぐその場で良くなりました。その場面を目撃した学習者らはみんな「神業のようだ」と驚嘆しました。
私は講習会のスタッフとして心性を試す難関によく出会いました。第7期講習会の時、地方から来た人がたくさんいたので、入場券を買えない人が多くいました。私たちスタッフは事前に入場券を買ったので、入場券を地方の人たちに譲って、私たちは舞台の裏に立って説法を聞いていました。時には入口で何かの動きがあったら、師父は私たちに「外を見てきてください」と言われ、私たちはすぐさま入口の様子を見に行きました。
講習会に参加する中で怖い体験もありました。それは1994年8月の初め、ハルビン市のアイスホッケー・リンクで催した講習会でした。当時アイスホッケー・リンクの建設はまだ完全に終わっておらず、周辺の環境は少し乱れていました。
その講習会が受けた邪魔はとても大きいものでした。師父の目はずっと充血し、私を含む長春からハルビン市まで師父に付き添ってきたスタッフたちもみな目が赤かったのです。説法される時、師父はよく咳をされ、私たちの喉もずっと乾いて痛かったのです。他の空間の良くないものが師父を邪魔しようとし、師父に消滅されてから師父の喉のところに落ちた、と後になって師父が説明してくださり、その悪いものは死んでも悪事を働き、師父に咳をさせたのだと私たちはやっと分かりました。
経費を節約するため、ハルビン気功研究会は地方からきた学習者をハルビン工科大学の学生寮に泊まらせました。当時ちょうど夏休みの期間で、学生らは実家に帰って寮は空いていたからです。師父もそこに泊まられました。しかし寮は断水して停電し、ハルビン気功研究会によると、それは今までにない事でした。飲む水は買ってくれば解決できますが、生活用水がないと顔も洗えないしトイレも使えず、夏場で大変でした。寮からアイスホッケー・リンクまで、毎日大型バスの送迎がありますが、バスが途中で故障して、私たち輔導員はバスをアイスホッケー・リンクまで押していったこともありました。
夜、講習会を終えて寮に帰り、ある学習者がベッドで横になった時、彼の体から1匹のイタチが落ちて去っていきました。その時、窓の外にも1匹の大きなイタチがいて、窓を掴んで中へ入ろうとしていました。イタチは師父が学習者の体を浄められた時に消滅した悪いものだったのですが、イタチは諦めずにまた学習者の体に取り憑こうとしている、と分かりました。そこで、みんなは外に出てイタチを追い払いました。
その講習会で私は入口の警備を担当しました。講習会の8日目に、4人の男性が担架を担いで会場に入ろうとし、担架の上に1人の患者が横たわっていました。重病患者は会場に入れない決まりがあるので、私たちが男性らを止めると、彼らはとても不機嫌になって帰りました。講習が終わって師父にその事を報告すると、患者はすでに亡くなり、元神はすでに去ったと師父は言われました。思いもかけないことに翌日、つまり最終日に彼らはまた担架を担いで通路を通ってずっと舞台に向かって来ました。私たちは師父について舞台の裏から去ったのですが、彼らが騒いだ場面を場内に残っていた学習者はみんな見ていました。
その患者は、長春のある学習者の紹介で錦州から運ばれたことを、後になって知りました。その学習者は師父に患者の病気を治すように求めましたが、師父は断わられました。その学習者は胸元の服に付けていた法輪功のバッヂを外して地面に投げすて、師父に「それなら、私は修煉を止めます」と師父を脅しました。師父は厳粛に「あなたには修煉する資格がない」と答えられました。その学習者は怒りを押さえきれず、騒ぎを起こすために、担架を出動させ死人を担いできたのです。
師父は『轉法輪』の最後に「法を伝えている中で、うまくいかなかった点もありますが、さまざまな方面からの妨害もかなり大きかったのです」とおっしゃっています。その一言は言うのは簡単ですが、正と邪の戦いがどれほど激しかったのか、師父だけがご存知です。弟子の私たちが経験したのは、自分の目で見たほんのわずかだけなのです。
師父は長春の弟子と輔導員のことを心に掛けておられる
修煉して2年が経ち、法理に対する理解を深めた私たちは法輪大法を暗記しようと決心しました。当時、暗記したのは『法輪功(改訂版)』の心性修煉の部分です。
1994年9月18日、師父は地方の伝法から長春に帰って来られ、吉林大学物理・化学教室棟の講堂で長春の輔導員たちに説法をされました。ある輔導員は『法輪功』を暗記していることを師父に報告すると、師父は「つまり我々は集まって一緒に煉功するだけではなく、私の故郷で率先して皆さんを組織して、ある特定の時間に皆さんが集まって一緒に法を学んでみたら如何ですか。一講一節を順番に皆で読み、討論してみます。学習の時間は一緒に煉功することと同じように固定すれば良いでしょう。こうすればきっと良い効果があり、問題意識を持ち、こうして我々は将来、実際の問題にぶつかる時に法に基づいて対処することができるようになります。われわれが先例を作れば、全国各地の輔導站に対して良い先導の役割を果たすことができます」と話されました。 2カ月後、つまり1994年11月20日、法輪功学習者の初めての集会として、長春大法弟子第1回修煉体験交流会が吉林大学の鳴放宮講堂で開催されました。
11月下旬、長春はすでに冬に入っていたのですが、交流会の日は晴れて暖かでした。天目が開いた学習者は、多くの神と仏が来たのを見ました。木の葉の上にさえ神と仏がいたそうです。入口に光の柱が2本あり、周辺にいろいろな形をしている光も動き、学習者が続々と入場するに従って、光も一つ又一つと並んで入口から講堂内に入りました。その素敵な場面はビデオで記録され、後日、長春の多くの学習者がそのビデオを見ました。
その交流会のことを、師父は『法輪大法義解・広州で全国一部分の輔導站責任者に対する説法』で「長春では録画を撮りました。学習者は心を打たれる話を語り、聞いている学習者もかなり感動して、涙がこぼれる人もいました。交流会は非常に充実しており、雰囲気も非常に良く、皆さんも非常に喜びました。まさにあなたが先ほど言ったようにその場において、私本人がいない以外に、すべて揃いました。我々の講習会の時と同じく、その場は非常に強いのです。それはまさに法輪功の集結であり、法会と同じです。だから効果はとてもいいのです。将来学習者が多くなったら、このように修煉体験を交流したほうがいいでしょう。学法を通せば、とてもよく教育できます。功を学んだあとにどんな収穫があったかを学習者自身が話すのは、ある方面から見れば、我々が話すよりも生き生きとしているのです」と紹介されました。
1995年のはじめ、『轉法輪』が出版されました。できるだけ早く『轉法輪』を学習者の手に届け、みんなが学法できるように助力するのが、私たちの急務で、私たちは北京から『轉法輪』をたくさん持って帰りました。その後、私は北京の学習者から師父の広州説法のビデオテープを入手して、輔導站はそのテープを大量に複製して学習者に配りました。法輪功を広める活動にもそのビデオを使うことができ、とても嬉しかったのです。あの時、新しい学習者がどんどんと増えていました!
『轉法輪』が出版された後に、師父は海外に伝法に行かれたので、輔導員はみんなを集めて学法と煉功を続けていました。互いに人心が重くて自我を放下しないため、だんだんと対立が明朗化しました。師父がそばにおられないため、法を師として、みんなは少しずつ心を修めていきました。
1997年夏、長春地区の輔導員の間の対立は最も鋭い状態になって、自分で解決できなくなりました。師父が帰って来られたら師父に苦しい心境を訴えて、師父に解決して頂きたいと、みんなが待ち望んでいました。師父は海外から帰国され、地質博物館の広場で一部の輔導員に会われました。師父が見えた時、みんなは競って師父と握手しようとしましたが、私は後に立っていたので、師父は後に来られて、ぐいっと私の手をしっかり握られました。師父の手はとても大きくて、とても厚くて、とても柔らかくて、とても暖かくて、握手した瞬間、電流が私の腕に沿って全身を走った感じがしました。私の心に詰まった不満や文句は、一瞬の間に溶けてなくなりました。皆さんは私と同じかもしれませんが、誰も師父に文句や不満をこぼしたりしませんでした。みんなは楽しく師父を囲んで師父の言葉を聞き、また楽しく師父と記念写真を撮りました。みんなは師父の計り知れない慈悲とエネルギーを感じて、また師父の物事に対する対処法に感服しました。
1997年5月13日は師父の伝法5周年の記念日なので、学習者たちは長春で大規模な書画展を催しました。作品はすべて学習者自身が創作したもので、とてもレベルが高く、全国各地からの見学者を魅了して、法輪大法を広めるために良い効果をおさめました。書画展が行われる中で多くの奇跡が起きて、書画展を見学して大法修煉を始めた人もいました。書画展を見に来た地方の学習者は長春を見習って現地でも書画展を催そうとしました。師父は海外に行かれたために書画展に来ておられませんでしたが、師父の奥さんと娘さんは書画展を見に来られました。師父は帰って来られてから「非常に大きな功徳を作った、非常に大きな功徳を作りました」と書画展を絶賛されました。
1年後、1998年7月末のある日、私たちは輔導員会議が開かれるとの知らせを受けました。7月26日、会場のシャングリラホテルに着くと、なんと師父が来られました! 吉林省各地から700人ぐらいの輔導員が会議に参加しました。
その前の6月初めに北京テレビ局が法輪功を中傷する事件が発生したばかりで、師父は『根を掘る』と『誰のために存在するのか』を発表されました。当時、悪人はメディアを利用して大法を誹謗中傷し、大法の名誉は大いに毀損されました。当時の社会には大法にとても不利な雰囲気が漂って、弟子の私たちは誰もがプレッシャーを感じていました。説法される時、これらの出来事に正しく対処するようにと師父は指導してくださり、また私たちの修煉の不足のところを指摘してくださいました。
説法の後、師父はみんなの多くの質問に解答されました。当時、煉功点がいっぱいあって、どのように学法を行うかについて、みんなのやり方はまちまちで、それに対して師父は『轉法輪』を通読するようにと教えられました。説法の後の8月3日、師父は『法の中に溶け込む』を発表されました。1998年7月26日の説法は、迫害前に師父が中国で行われた最後の説法です。『轉法輪』をよくよく通読して大法の中に溶け込んでこそ、はじめて迫害を乗り越えることができる、と残酷な迫害を経験してから私はやっと分かりました。なるほど、迫害が始まる前に師父は私たちに全てを教えてくださったのです。
師父の説法を聞くのは、それが最後でした。その時、私の修煉状態はあまり良くないため、前の席に座る勇気がなく、師父と握手する勇気もなく、最後列に座って5時間にもおよぶ師父の説法を聞きました。
迫害が発生してから
1998年7月26日、師父は吉林省の輔導員たちに説法された後、また海外へ行かれました。1999年7月20日、邪悪な迫害が始まって、全ての大法弟子は厳しい試練に直面させられました。
迫害が始まってからも、私は師父の教えに従ってずっと学法と煉功につとめ、家に資料拠点を設立して真相資料とDVDを作って配り、真相の電話をかけるなど、できることならなんでもやりました。
迫害の初期、ある日、家に突然7、8人の警官が来て、私を家から連れ出してから、家に置いていた法輪功の資料を全部没収しました。
数年前に私は捕まえられて、家に置いていた機材と資料を没収されたのですが、師父のご加護のおかげで、数日後私は無事に釈放されました。
毎年の5.13に私たちは祝賀活動を行います。パレードや集会をすることはできませんが、私たちは家で祝います。家に大きな横断幕を掛けて、上に「法輪大法が世界に伝えられ◯◯周年を祝う」、「李洪志師父のお誕生日を祝賀」と書いて、師父の写真の前にお花、果物、誕生日ケーキを供えて、みんなが順番に線香を立て、子供弟子たちは楽器を奏でて舞踊を披露し、私たちは大法弟子が作成した歌を歌って、『洪吟』を暗唱しました。中国国内においても海外と同じく盛大に師父の誕生日を祝いました。
師父の説法ビデオを見ると、また師父にお会いしたようです。私たちも交流会を開きますが、みんなが最も聞きたいのは、やはり古い弟子らが語る、師父と一緒にいた時の思い出話です。空港まで師父を出迎えたこと、師父が私たち一人一人と単独で記念写真を撮ってくださったこと、師父が省委員会講堂の食堂に私たちを招待してくださり、師父が注文してくださった料理は盛りだくさんで美味しかったこと、幸運にも私は何度も師父にお会いすることができ、師父の説法を恭しく聞きました。一つのシーン、一つのシーンは、とても幸せでとても貴重な日々でした。当時の私たちは多くの写真を撮りましたが、写真には無数の法輪が映っており、法輪は写真の隅々にまで飛び回っていました。
結び
最後に師父の説法を聞いた時から、今日まで20年が過ぎて、私は80歳の老人になろうとしています。師父を思って師父にお会いしたいのですが、師父に会うためには海外に行かなければなりません。しかし私はずっと長春の地、師父の郷里で、大法がここから伝わったことを見守ろうと決心しています。かつて師父は「長春、長存」と言われたことがあり、私はここで師父のお帰りを待ちます。
時間が経つのは本当に速くて、今年の5.13に師父は66歳の誕生日を迎えられ、伝法して25年経ちました。私も師父について修煉して25年になりました。師父のそばにいられる幸運を手に入れられる人は、世の中にいったい何人いるでしょう、それは私の一生涯の誇りです! これからも私は師父について前に進み、やるべきことを全てやって、果たすべき責任を全て果たして、最後に師父について天国の家に帰りたいです。
師父、誕生日おめでとうございます。
師父に感謝します、同修の皆さんに感謝します。