法の暗唱により 私は変わっていった
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 【明慧日本2020年6月1日】

 法を得た当初から、法を暗唱する

 私は1998年4月に法を得ました。当時、天津の漢沽区に仕事のため出張に出かけました。体が弱かった私は公園でいろんな朝練を目にしましたが、気に入りませんでした。ある日の朝、法輪功煉功点が目に入りました。大法についての紹介を読み、師父の各地で撮られた写真を見ました。私は大法の功法の特徴に惹きつけられました。八つの特徴が全て心に留まり、師父の穏やかで慈愛に満ちた笑顔を見て心が非常に落ち着き、心から法輪功を学び、師父と共に歩んで行きたいという純粋な一念が湧いてきました。

 数日後に煉功点に行くと、功法を教えてくださいました。動作を学んだ後、私は自ら「書籍はありますか」と聞きました。「ありますよ。何冊購入しますか」。私は「何冊ありますか」と質問しました。「現在、煉功点に6冊あります」。「私たちは書籍を売ることが目的ではないため、あなたに誤解されないように書籍購入の話をしませんでした」と説明を加えました。私は「あるだけほしいのですが、何冊ありますか」と依頼しました。

 貴重な書籍を購入した私は一気に『シドニー法会での説法』、『法輪大法義解』、『轉法輪法解』、『轉法輪(巻二)』、『精進要旨』を読み終え、非常に震撼させられました。本当に神佛はいらっしゃるのだと、心の中で密かに喜びました。間もなくして、『精進要旨』を暗唱できました。

 ところが『轉法輪』を学ぶことは難しかったのです。少し読むだけで眠くなったため、私は床に座って学び、眠くなったらベットに身を寄せて、少し寝ました。手に本を持ったまま寝て、目が覚めたらまた続けて『轉法輪』の本を読みました。その後、法を書き写したり、暗唱し始めました。

 はじめた当時は非常に精進していました。毎日目が覚めると、前日暗唱した法を思い起こし、寝る前には当日暗唱した法を再び復習しました。法はとても重要で、文字の一つ、符号の一つでも漏らしてはならず、多かったり少なかったりすることにより、法の表面の意味合いが違ってきます。そして私は本当に真面目に法を学び、法を広め、人に会う度に大法の素晴らしさを伝えました。

 毎日大法の中にどっぷりと浸かっている中で、知らないうちに病気が全てなくなりました。以前は全身の関節が痛んで、ベットから起き上がる時には、先ず、ゆっくり腰を引き上げてからまっすぐに立っていましたが、今では歩く時にもジャンプしたい気持ちです。大法は私を生まれ変わらせ、心身とも大きく変えてくださいました。絶えず法を暗唱する中で、私は個人修煉の時期を過ごしてきました。

 強制労働収容所の魔難の中で、法に憧れる

 2008年3月、私は非合法に連行され、強制労働収容所に444日間不当に拘禁されました。人身の自由が奪われ、会話すること、食べること、飲むこと、トイレに行くことさえも全てが制限されました。また、警官らに唆(そそのか)された監視役の受刑者らからの挑発や手出しや干渉に、直面しなければなりませんでした。このような状況の中で、いかにして邪悪の虚言に騙されないようにし、いかに警官の偽善や邪説に動揺しないようにするのでしょうか。それは法で心の困惑を解くことでした。師父は「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[1] と説かれました。

 強制収容所の中では、師父の説法を見ることはこの上なく貴重なことで、非常に難しいことです。ここで当時、正念の強かった同修に感謝します。彼らは邪悪の強暴を恐れず、様々な方法で経文を各監房に伝達していました。同修らは互いに助けて合って、賢く受刑者の目線を避けて、順番に経文を暗唱しました。私は強制収容所の中で『洪吟』、『洪吟二』、『最後になればなるほど、精進すべき』、『悪を取り除く』、『強制は人心を変えられない』など、多くの経文を暗唱しました。

 ある日、ある同修が手書きの経文の中の文字が一つ間違っているように感じ、このように暗唱してはならない、と指摘しました。しかし一部の同修は、この問題を理由に全経文を暗唱することを止めてはならない、と主張しました。互いに議論を続ける中、その場にいた今回4回目に迫害を受けた50歳を過ぎた同修が、残酷な迫害の中で涙を流したことがなかったのに、同修の議論を聞き、とても悲しくなって泣き出しました。自分がしっかり学法できていなかったことを悔やんでいました。泣きながら開放されたら、必ず時間を大切にして法を学び、法を暗唱すると語りました。その光景を見て、同修たちはそれぞれが何かを悟り、互いの言い争いをやめて落ち着きまた。過去の法を暗唱する状態を取り戻し、雰囲気が穏やかになりました。

 邪悪な環境の中で師父の経文を入手することは極めて難しいことであり、突然に捜査された時に見つけられないように、経文を安全に保管することも大変難しいことです。これには全員の協力と智慧を出し、勇気が必要で、いざという時なって、慌ててはならないのです。普段から経文を保管できる場所をしっかりと見極め、いつでも経文を隠すことができるようにしました。そうすることで、警官や受刑者らの目の前にあっても、彼らにはわかりませんでした。師父の慈悲なる保護の下で、毎回ハラハラする中、無事に経文を保管することが出来ました。本当に師父の洪大なる慈悲に感謝いたします。

 法を暗唱することで、いかに修煉するかを学ぶ

 非常に長い間、私は常人の心で法を学んでおり、それに2回迫害される中で、警官らに酷く殴られたために恐怖心が生まれました。私は6年間もただ生きるために働き、修煉を怠って、衆生を救い済度することを怠っていました。

 2016年、私の助けを望んでいた母(新しい学習者)が亡くなった時、私はふと自分の修煉に大問題があることに気付きました。身体にも問題が現れ、以前には十数年間も組めていた脚が組めなくなり、腹部にはこぶし大のモノができ、全身が何かに縛られたように感じました。数々の魔難に直面して、私はどうすればいいのか静かに考えました。この数年の間、魔難を乗り越えて来られたのは、法を得た当初に精進して着実に修め、法を暗唱して法を敬ってきたことと切り離されない、ということに気付きました。修煉者が法を離れ、法の要求通りに行動しなければ、常人と違いがないのです。さもなければ、常人よりも劣ります。なぜなら、あなたは法を得た生命だからです。

 自分の不足を見つけた私はしっかり学法し、法の中で自分を正すことしかない、と分かりました。そして学法は法を暗唱する方法を選び、またちょうど一緒に、法を暗唱したい同修がいたので、1週間に1回一緒に法を暗唱し合って、自省を促しました。

 師父は『轉法輪』と各地での説法の中で、異なる角度から私たちに修煉とは何かを教えてくださいました。内に向けて探すことにより、私には大きなことをして功績を上げたがる自分の名利心が見えました。仕事をまだやり終えていないうちから、功績を争う心、自分は仕事ができるという顕示心が現れてきました。また疑心も非常に強く、常に人が後ろで自分の話をしているのではないかと疑いました。仕事をする時には自分の得と失を考慮し、納得できないと不満をこぼす心も強く、色欲の心、異性を見ると悪い心も浮かんできました。特に隠された狡猾な邪党文化の心理があって、仕事をする時に、見た目を良くするなどたくさんの常人の心や執着もありました。これらの汚い人心を見つけた私は、それらを全て取り除こうと決心しました。ここでは主に、嫉妬心を取り除いた過程について話します。

 嫉妬心について、私はそれらを認識してから抑制し始めて取り除くまでに、およそ2年間かかりました。

 当時、私たちは3人で一緒に、電話で真相を伝えることを学んでいました。3人の中で、同修Aはすでに1年以上1人で真相電話をかけており、毎日人々に三退を勧めることが出来ていて、非常に真面目な人でした。同修Bと私は学び初めたばかりでしたが、私よりも後で学び初めた同修Bが、同修Aより毎日の三退させる人数が多く、私は5日間連続してやっても、1人も三退させることが出来ず、非常に悲しかったのです。私の心は五つの味の入った瓶を倒したかのようで、さまざまな思いでいっぱいになりました。私は心の憤りを同修Bに向けました。ところが同修Bは常に微笑んでいて焦らないで、初めはそんなものだから、たくさんかけるとよくなるよ、と励ましてくれました。私は表面上はその言葉を受け入れていましたが、心の中はねじれていて逆に大変苦しかったのです。自分も頑張りたいと思い、夜帰宅後に学法をしました。そして自分が同修Bに対して、正しい態度を取れると感じました。しかし、三退人数が多くなったり少なかったり、同修Bに会うと、嫉妬心がまた現れて来ました。

 こうして毎日心性の摩擦に直面している中、2、3カ月が過ぎました。私は絶えず法を暗唱する中で内に向けて探し、内に向けて修め、同時に自分が電話をかけた際に遭遇したいろんな状況についても考えました。例えば、真相を知らない人から、いろんな汚い言葉で罵られた時に、どうすれば相手に拒否されずにすむか、また、大法の真相を聞かせて分からせるかなど、人を救うことに力を入れました。法を暗唱することを通じて、私たちがやってることは行脚のようなもので、どんな人に会っても、どんな言葉を聞いても、心を動揺してはならいないのだ、と認識できました。なぜなら、今日の衆生は皆法のために来ており、私たちは師父の法を正すことを手伝う大法弟子であり、本当に人を救っておられるのは師父であり、大法であるからです。自分を完全に放下して真相を伝えた時、人を救うことにおいて突破することが出来ました。人に叱られても心を動揺させず、続けて真相を伝えることができ、最後に私は「あなたは真相が分かったら脱退してください」と伝えました。すると、相手も態度が真逆になり、「いいですよ」と快諾してくれました。最後に私はこう伝えました。「ありがとうございます。なぜなら、あなたは自分の未来を選択でき、あなたの生命は何よりも尊いからです」。またある日、師父が本当に私の身辺にいらっしゃると悟った際、人々は本当に私たちが事前に用意した名前で、一人一人が脱党してくれました。こんな状態が一時期、続きました。

 嫉妬心、この非常に悪い物質は、また他の形でも現れました。私に毎日同修が何人三退させたかに気を取られ、密かに人と比較していました。表面上では、改善を促すためだと言いながら、実際は他人と競い合っていました。同修にはこれらが分かっていたと思いますが、ただ微笑んだり、答えにならない答えを言ったりしました。ところが、私は法を以て判断することが出来ず、他人が不誠実であると非難しました。これは如何に汚い心でしょうか。幸いなことに、ある日法を暗唱していた時、私はハッと悟りました。この数年間私は間違って同修を非難していました。同修の寛大な心を虚偽だと思い、内に向けて修めず、ただ外に向けて探しただけで、トラブルと遭遇するといつも外に向けて求めていました。これが修煉者の心のありようなのでしょうか。本当に同修に申し訳ないと感じました。同時に同修が長年に渡って無私に私を助けてくださり、争わなかった寛大な心があったからこそ、私は本日まで歩んで来ることが出来ました。同修に感謝します。これを悟ってから、ほぼ毎日会う同修ですが、私は会う度に嬉しくなります。同修に対する以前の良くない考えや、ギクシャクした心がなくなりました。法の中で修煉することは本当に素晴らしいことです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/4/7/403475.html)
 
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