男女間の適切な行動の重要性について
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年9月11日】私の地区では、男女の同修が長い時間2人きりで協力し合って大法の仕事を行なっていることがあります。この2人の同修は、協力し合っている間、互いの崇拝心理から男女の情が生じました。このため、周りの同修はこの2人の同修と何回も交流しましたが、あまり効果がないようでした。結局、この2人は男女の関係になりました。今では、「後悔しました。もう二度と間違いは犯しません」と話しましたが、2人きりで一緒に仕事を行なっていることは変わっていません。家族も理解できないと言い、同修達も注意してあげていますが、この2人は「大丈夫」と言いました。

 男女の同修が2人きりで、長い時間をかけて仕事を行なうことは以前からあります。問題が起こったこともあり、私の地区にもありました。女性は男性を、或いは男性は女性を崇拝するとか、または互いに男女の情が芽生えるとかです。時間が経つと、最初の頃の純粋な男女の感覚を保つことができなくなってしまいました。しかし、その時同修は、もっと衆生を救い済度するためだということを理由にしていて、自分の行為を弁解しています。周りの同修は、この理由を聞いてこの状態が正しいかどうかをはっきりと認識できなくなってしまいました。

 なぜはっきりと認識ができないのでしょうか? 恐らく私たちは、男女の情について、修煉が足りないところがあるからだと思います。私は、明慧ネットからこの問題に関わる交流文章をダウンロードして勉強しました。この問題を引き起こした原因について、私たちの色欲の心を取り除く以外に、私たちの行為が正しい修煉者としての基準になっているかどうかに関係しています。つまり、私たちは、色欲の心を取り除く以外にも、自分の行為を正しい基準で律しなければなりません。

 師父は「大志を懐きながら細かいことに配慮し」[1]と説かれました。常人にも「男女には区別がある」という言葉があります。つまり、男性と女性の間は一定の距離を保つべきです。

 私たちは三界内で修煉しており、情欲が溢れている環境の中で修煉しています。修煉の中で、まだ取り除いていない人心があります。もし2人だけで長い時間一緒にいると「情」という三界の要素によって、「日久生情(日々一緒にいると、情が芽生える)」ということになります。伝統文化には、「男女には区別がある」、「男女は同じ席に座らない」、「男女は同じ部屋に泊まらない」などの言葉があります。私たちがもし男女の付き合いの基準をしっかり守ることができなければ、神が人間に定めている男女の境界線を超えてしまい、色魔に私たちを迫害する機会を提供することになります。

 また、「大法弟子と大法弟子の関係は、一番純正なので問題が発生することはない」と考えている人がいます。これも「大法の本を持って、車なんか怖くない!」と同じようであり理智を失った行為です。

 長い時間、男女2人きりになることによって、男女の情が芽生えるかどうかは別にして、長い時間2人きりになること自体が非難を引き起こし、家庭のトラブルも引き起こし、他人からの誤解も引き起こすことになるでしょう。常人にも、「夫婦以外に、男女2人きりで長い時間いることは良くない、家庭のトラブルを引き起こしてしまう」という認識があります。私たちは大法の修煉者として、更に高い基準で自分を律しなければいけません。私たちが歩む道は後人に残すことになります。

 師父が「大志を懐きながら細かいことに配慮し」[1]と説かれたように、私たちは「常人の中の模範人物よりずっと優れています」[2]。修煉者には修煉者の基準があり、この基準は常人の基準より遥かに高いのです。ですから、大法の仕事という理由で、他のことに対して何も構わないということではいけません。

 このため、師父が説かれた「私は旧勢力の妨害について話したことがありますが、皆さんは考えたことがあるのでしょうか? これも牽制の要素なのです! 旧勢力、旧宇宙は何を最も重く見ているのでしょうか? まさに色欲であり、男女間の問題、このことを最も重く見ています」[3]について、私はもっと深く理解しました。師父はまた「つまり、彼らがこれらのことを非常に重く見ているので、このことにおいて戒律を犯した人、このことを正しく行なわなかった人であれば、旧勢力、宇宙のすべての神はあなたを守らないのです。その上、あなたを下へ落とします」[3]、「邪に悟った学習者がいますが、このような人は本心から邪悪のほうに行ってしまったとでも思っていますか? それはすべて原因があるのです」[3]と説かれました。

 師父は私たちに「大きな方向に対して、明慧ネットを基準とする」と仰っています。しかし同修は「明慧ネットの文章は、個人の認識であり法ではありません。人によって次元が異なるから、法の中で私たちが一緒の次元にいるということはないでしょう…」と言いました。

 もし師父が法の中ですべて明確にしてくだされば、私たちは修煉することがまだあるでしょうか、悟ることがまだあるでしょうか?

 私は伝統文化の中に男女関係についての礼儀を理解しました。多くのことについては、私はそもそも分かりませんでしたが、大変勉強になったと感じました。もし「礼」が分からなければ、「非礼」や「礼儀を超える」については分からないでしょう。ここで、この観点を同修に強制的に押し付けたくはないのですが、単純に関連する内容を整理してこの問題についてまだはっきり認識していない、基準が分からない同修にこれを参考にしてもらい、皆が向上できるようにと希望しています。

 中国の伝統礼儀は道徳文化の一部です。礼儀を学ぶことと守ることは善良な人、高尚な人になる大事なルートです。古人は、礼儀の書籍『儀礼』を経典として学んでいました。『儀礼』は伝統文化の行為の基準であり、社会の制度の基礎でもあります。人の「礼」というのは何でしょうか? 「本分」とは何でしょうか? 「非礼」とは何でしょうか?「非分」とは何でしょうか? どうやって「礼」になるのか? どうやって自分の「本分」を守るのか? 人と人との間では互いに分相応に振る舞い、互いに尊敬し合えば、互いに競合しないことになるでしょう。

 「礼」というのは人間の基本的な道徳基準で、自分に対しても他人に対しても得るものがあります。そして、「礼」は家庭の維持や社会の安定に対しても重要な要素なのです。

 「立于礼(礼に基づく)」とは、人の善の元なのです。「行于礼(礼儀正しく行動する)」とは、善の基準で物事を行うことなのです。「让于礼(礼儀によって譲り上げ)」とは、人と人の付き合いには善を持って相手を包容することなのです。

 礼儀を守るのは、人としての道徳修養の現れです。

 『儀礼』の中に、男女の間に関わる規範について、細かく厳しい規則が決まっています。例えば、「男女授受不親」というのは男女の間では直接物のやり取りをしない、男女は体が直接接触してはならない、何かを渡す時、他人や何か物を通して渡すということです。また「男女で同じ部屋に泊まることはいけない」、「男女で同じ席に座ることはいけない」というのは、男女の間に一定距離を保つことと、付き合う時、一定のルールを守ることです。

 この本の中に、「男女の間に付き合う礼儀、度合い、距離をはっきりと決める理由は、男女には区別があり恥ずかしいという心理を形成させることです」と書いてあります。

 しかし、今の社会には、常人は言うまでもなく、修煉者としても、この基準を自分の行動基準としているのでしょうか? 一部の修煉者は、「男女の間には最後の性の関係までになっていなければ、大丈夫、問題ない」と思っています。しかし、なぜこのように思っているのでしょうか? それは、私たちの観念、人類社会の道徳基準が落ちて、形成し変異した観念です。この観念を持って末法時期の常人の観念と比べて、自分の観念が良いと思っています。もしこの観念を神様が人類に定めた伝統文化の道徳規範と比べれば、すぐ正しいかどうかわかるでしょう。実は、もし伝統文化の道徳基準より低い場合、さらに大法の基準と比べることはできないでしょう。

 時代が変わっていますが、神が人類に定めた基準は変わっていません。その理屈は同じです。現代社会の聖人君子や、礼儀を守って自重する人でも、男女の間にはある程度の距離を保つことを重んじ、2人きりの付き合いに対して慎重に対応しています。2人きりの付き合いを勝手に行うと、「非礼」になります。つまり、神が人類に定められた「男女には区別がある」という道徳規範に違反し、そして付き合い時間が長くなると、情が芽生えることになります。このまま発展していくと、情欲に環境を提供し、最後、色欲の心が氾濫して、色魔に操られて修煉者がしてはならないことを行うことになります。

 ですから、男女の間の度合いはうまく把握して、社会の道徳礼儀の規範に合ってから、家庭や社会の安定を保つことができます。逆に、家庭の倫理を破壊することになり、その結果は他人の非難や、家庭のトラブル、或いは社会の不安要素が引き起こされます。

 大法弟子はこのことについてしっかりと行なわなければ、人を救い済度する効果に影響を与えます。

 『儀礼』の中では、夫婦の行為規範も言及しました。他人の前で夫婦でも「男女授受不亲」という規則を守らなければいけません。この規則に対して私はちょっと以外に感じました。『儀礼』には、「公共の場所で、夫婦にしても、直接体の接触ができない。例えば、徳利を相手に渡す時、男性は徳利の上部を持ち、女性は徳利の下部を持つ、引き渡す時、男性の手と女性の手が重なり、接触することはいけません。つまり、夫婦にしても、他人の前で、礼儀を守るべきで、体の接触はいけません。後人に正統な準則、しっかりとした文明風格を残すべきです」と書いてあります。

 この文章は長い間に男女の同修が2人きりで大法の仕事を行なっていた際に、現れた問題に対しての考えです。不適切な所があると思いますが、ぜひご包容で、ご指摘お願いいたします。私の希望としては、大法の道を正しく歩み、一緒に向上するようにと考えています。合掌。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「聖者」
 [2] 李洪志師父の著作『轉法輪
 [3] 李洪志師父の経文『ロサンゼルス市法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/8/4/410001.html)
 
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