地区全体が長期にわたって迫害されることについて
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年9月24日】一部の地区では、迫害が酷く、同修が不当に拘禁されることがしょっちゅう起きています。その原因はいったいなんでしょうか? 個人的な理解では、以下のいくつかの問題があるのではないかと考えています。

 1、全体的な心性の向上の誘導に片寄り

 まず、法理に対する理解が片寄っているのです。仕事をたくさんやることは良く修め、精進していると考えている人が多くいます。交流会でも、仕事をたくさんやっている同修に経験を交流させ、常人の仕事の交流会のように、モデルを作り、他の人に学ばせようとしています。しかし、仕事がうまく出来たのは、その人が心性を高めた後の自然の顕れで、心性を高めないまま、学ばせることは、ただの形式に過ぎず、のちに必ず問題が起きます。

 交流会の目的は、小さな交流もそうですが、心性を高めることを主にしなければなりません。このテーマから外れてはならず、仕事の勢いで心性の高さを論じることもよくありません。一部の協調人は、交流会の本来の意味を片寄って理解しています。それでは、交流会は心性の向上につながりません。むしろ、常人が雷鋒を学ぼうと言うキャンペーンに似ていて、本質的な問題の解決に至らないだけでなく、問題を起こしやすいのです。

 2、依存心が多く、積極的にやろうとしない

 大法の中には役人はいません。すべての人は大法のために努力すると同時に、自分のためにも努力します。私達は大法の事、人を救うことを自分のこととしてやらなければなりません、必要なら、積極的にやるべきです。

 一部の同修は、他人に頼り、仕事の配分を待っており、まるで現場の仕事のように、仕事が与えられたら、しっかり完成して、終われば、仕事も終わり、問題があれば、上司に報告して、後はそちらの問題で、そっちの責任だ、という態度を取っています。師父は至る所に花を咲かせるように、誰もが自分の道を歩むようにと説かれています。もし、私たちが今のような態度で修煉を進めるならば、自分の道を歩むことができるでしょうか。

 実は誰にも問題を解決する責任があります。私たちが歩んでいる道は、次の世代の人々に残す道でもあります。特に修煉の中で問題が起こる場合、誰にも大法を護る責任があるのです。放任して、情にほだされ、あるいは自分を部下に、相手を上司として位置づけして、自分は関係ないと思えば、それは大法に対して無責任であり、自分に対しても無責任だと思います。

 3、協調人は全体の心性の向上を重視せず、自分の心性の向上が必要である

 一部の協調人は、逆に、他人に仕事を配分するのが好きで、すべてを一手に引き受け、仕事の規模が大きければ大きいほど達成感を感じているのです。協調人はすべてを自分一人で丸抱えてしまうのは、師父の要求通りになっていません。大法の中には役人はいません。同修の心性の向上を手伝い、同修が困った時に助け、独自で行動できるようにサポートし、すべての同修が自分と大法に積極的に責任が取れる人になれるよう、手助けをするのは、協調人が本来やるべきことではないでしょうか。それこそ、大法に、同修に果たすべき責任ではないでしょうか。

 人を救う事を、大法の為にする仕事だと理解してはいけません。人を救うことは修煉そのものです。心性が高まれば、積極的に人を救うことができ、効果も上がるのですが、仕事だけをして、心性を高めなければ、人を救う効果も上がらず、問題も起きるのです。

 もし、誰でも自我を放下し、真に大法に責任を持つようになれば、誰でも協調人になります。大法が必要とするならば、積極的にやり、全体の心性が高まれば、人を救うことを手配される必要があるのでしょうか、邪悪が荒れ狂うことがあるのでしょうか。心性が高まらず、仕事の量だけで心性の高さを判断するのなら、旧勢力と邪悪はその人心を掴んで私たちを迫害し、妨害するのです。そうなれば、私たちはいつまでもその対処に追われ、頭を顧みて尾を顧みず、旧勢力に振り回されて受動的になります。同修は損失を蒙るだけではなく、人を救うことも妨害され、世間の人は淘汰される始末になりかねません。そうなれば、私達は責任を逃れることはできません。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/9/17/335121.html )
 
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