「病業の関」を乗り越えることについての考え
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文/中国の大法弟子

 明慧日本2019年8月14日】自分の周囲からも、また、明慧ネットの交流文章からも、年配の同修が「病業の関」を乗り越えられない例はよくあります。具合が悪いとすぐいわゆる「病」に連想をめぐらして、ついつい、常人の方法で対処してしまう年配の同修が多くいます。はっきり言いますと、そのような同修たちはまず法理に対して理解があいまいで、次に、生死を平然と放下できておらず、体の「心地良い」状態を強く求めていると思います。下記では「病業の関」について、私自身の悟りを皆さんと交流したいと思います。

 1、「業の消去」と思うと、旧勢力を認めることになってしまう

 「二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法」で、師父はこのように弟子の質問にお答えになりました。

 弟子:大陸にいたとき、学習者は具合が悪くなったとき、多くの場合、旧勢力の迫害が原因であるため、皆正念で否定し、内に向けて探していました。海外に来て、具合が悪くなると、学習者は業を滅していると言っています。法理からあまり理解できません。

 師父:邪悪な環境で、特に中国ではほかの空間の邪悪が多いため、学習者を迫害することがあります。邪悪の要素が海外にすでに多くないため、圧力はありません。現在、業の消去にしても、邪悪の要素による妨害にしても、すべて旧勢力がやったことであり、同じことです。言い方が違うだけです。旧勢力がやったことを私はすべて否定し、認めません。大法弟子が苦しみに耐えるような事はことさらあってはいけません。(拍手)

 「業の消去」は旧勢力がやったことで、修煉者として認めてはいけません。では、具合が悪くなると「業が消去されている」と思うこと自体が、旧勢力の仕業を認めることになるのではありませんか。それでは「業の消去」を否定すること自体、旧勢力を否定することに等しいことだと、私は思います。

 2、具合が悪いのは、師父が体を浄化してくださっている

 師父は『轉法輪』に「昨日から、講義が終わって、身体が軽く感じる人もたくさんいます。 しかし、ごく少数の重病患者は一足早く、昨日から苦しくなりました」[1] と説かれました。

 実は以前の病気は病院や気功師によって表面の症状だけが治され、隠されていた業力は全然消去されていません。今、具合が悪いのは、師父が隠されていた業力を全部、徹底的に消去されているからです。師父は修煉者の体を浄化してくださっているのです。

 師父はまた「しかし、宇宙には『失わなければ得られず』という理がありますので、根こそぎ取り除いてあげるわけにはいかず、また自分でまったく苦しみに耐えようとしないことは絶対許されないのです」[1] と説かれました。

 修煉者の体にまだ少し具合が悪い感じが残っているのは、自分自身が少し苦しみに耐える必要があるからです。大多数の苦しみは師父が耐えてくださいました。ほんの少しだけを残して、我々の心性を高めるために修煉の各段階に割り当てられています。もし、師父が耐えてくださらなければ、あれほどの大きな業力は修煉者自身ではとても耐えられないものです。少しだけ苦を嘗めたことで、どうして師父と大法に対する「信」が動揺するのですか。

 3、具合が悪いのは、功が現れたからである

 師父は『轉法輪』の中で「煉功者はこれからの修煉においても、決して楽ではありません。多くの功が身体に現われてきますが、いずれも強烈なもので、しかも身体の中を動き回りますので、あれこれ具合が悪いと感じるかも知れません。具合が悪いと感じるのは、常に病気にかかるのを恐れているせいです。本当のところは、身体の中にそれほど強烈なものまで現われてきたのであって、現われたものはみな功や、功能ばかりで、さらに多くの生命体もあります。それらのものが動き出すと、身体が痒くなったり、痛くなったり、辛く感じたりするのです。その上、末梢神経の感覚も敏感で、いろいろな状態が現われてきます。身体が高エネルギー物質によって取り替えられるまでは、ずっとそういう状態が続きますが、それはもともと良いことです。しかし、修煉者でありながら、いつまでも自分を常人と見なし、いつも病気ではないかと気になっているようでは、どうやって修煉できるのでしょうか? 煉功の中で劫難がやってきたのに、相変わらず自分を常人と見なしているようでは、その時点で心性が常人に堕ちたと言えます。少なくともこの問題に関しては、常人の次元に堕ちてしまったのです」 [1] と説かれました。

 だから、具合が悪いのは良いことです。修煉者には病気がないと師父はおっしゃったので、具合が悪いことを病気だと思うのは、修煉者として間違っています!!

 4、具合が悪いのは、虚像である

 師父は「例を挙げて説明しましょう。佛教では人類社会のすべての現象は幻像で、確かなものではないと言っています」[1] と説かれました。

 そこで、体の具合が悪いことは、すべて幻像です。しかしもし、私たちがそれを病気だと思うなら、私たちの心性も常人のレベルに落ち、それが本当の病気になるかもしれません。

 5、1杯の水でも、場を変えれば薬にもなる

 以前一時期、私は「穿心蓮(センシンレン)」という薬草を好んで食べ、よく買って来ました。ふつうに言えば「穿心蓮」は漢方薬ですが、私の頭の中には全く薬の概念がなく、ただそれをシャキシャキして口当たりの良い野菜として食べていました。野菜と思えば、それはただの野菜になります。一方、のどが痛い時に、痛みを軽減させるために水を飲むと、その水は知らないうちに、その時の苦痛を解決するための「薬」として使用されたのではありませんか。

 薬を飲まず、病院にも行かないのが、修煉の道を良く歩んでいるとは限りません。修煉者と常人の本質的な違いを分別しなければなりません。ある年配の修煉者は足が痛いため、ヨモギの葉で足浴をしたことを私は聞きました。潜在意識の中で、彼はヨモギの葉を薬として使っていませんか? やはり常人の方法を使って病気を治そうとしています。

 6、具合が悪い時、内に向けて探さなければならない

 大法弟子として、常に内に向けて探すべきです。当然、体に異常が現れたら、さらに内に向けて探すべきです。もちろん、この時の「内に向けて探す」のは、出発点を正しく持たないといけません。病気の苦痛を解決するために探すのではなくて、大法弟子として常に内に向けて探さなければなりません。

 私の修煉の中で、明慧ネットの交流文章に助けられて、心性の向上を遂げたことが多々あります。修煉して間もなく、左側の腎臓の所が何回も痛くなりました。1回目、母は電話で「薬を飲みなさい」と言ったのですが、母がそばにいないため、私は薬を飲まずに痛みを耐えました。2回目、実家に帰った時にまた痛くなって、母は「薬を飲まないと親子関係を断ち切る」と脅かされて、仕方なく、しぶしぶ薬を飲みました。私は心の中で師父に「師父よ、私は飲みたくて飲んだわけではありません」と告げたのですが、その後、痛みは時々発作的に襲ってきます。

 それから、私は同修の交流文章から、「私は李洪志師父の弟子で、師父の按排しか認めず、他の按排はいっさい認めず、いりません。良く出来ていない部分は今後、自ら正しますので、旧勢力の按排は一切いらない」という考え方を学びました。そう考えただけで、すぐ痛みが止まりました。看守所に入れられた時も、心が不安になると、上記の言葉を思い出しました。それで、わずか1カ月で私は無事に出所しました。

 しかし、具合が悪い時に、旧勢力を否定するだけではまだ足らず、その有難い機会をしっかり掴んで、また内に向けて探すべきなのです。

 師父は「今は修煉ができておらず、このように行なうのはまだ無理で、乗り越えられないなら、(師父が笑って)病院に行って、修煉が向上したら正しく行なえば良いのです」[2] と説かれたのですが、しかしその後、師父はまた「しかし、私はこのように話しましたが、自らを緩めてはいけません」[2] と説かれています。

 常人か神か、その一念の違いで決められ、その一念は分水嶺です。難関を乗り越えることができれば、次元も大きく向上しますが、乗り越えられなければ、常人レベルに滑落したことになるのではありませんか。修煉者にとって、自分を常人として見るか、それとも神として見るかの大きな違いです。

 7、同修Aさんの修煉の話

 ここでAさんの修煉ストーリを皆さんと分かち合いたいと思います。Aさんは70代の男性同修で、一人暮らしをしています。一時、Aさんの首が立たなくなり、仕方がなくずっと首が垂れたままで、歩くことも困難になりました。周囲の同修たちはずっとAさんと一緒に学法して交流して、生活の面倒も見ています。同修たちに迷惑をかけたくないため、Aさんは老人ホームに入ろうと考えました。しかし出発の日になると、Aさんはひどく下痢をして、それで老人ホームに行けませんでした。

 同修たちはAさんと交流して、以下の問題点を探し出して伝えました。まず一つ目は、真相を伝える時に、中国共産党の邪悪だけを言って、法輪大法の良さを話していません。二つ目は、聞く相手の一人人に偽名を聞かずに、ただ人数を数えて、それを大紀元の脱党サイトに伝えています。そしてもちろん、よく脱党サイトからメッセージを戻されている、とAさんに教えました。

 Aさんは同修皆の意見を聞き入れて、そこで改心しました。しばらくして体が回復しました。その間に、常人の友人たちは「病院に行こう」と勧めたのですが、修煉の固い信念を持っていたAさんは、これらの難関を乗り越えました。彼の回復は友人の間で有力に「法輪大法が素晴らしい」を実証できました。

 すべての知恵は大法から得たもので、私たちは多く学法して、多く『轉法輪』を暗記してこそ、初めて本当に法理が分かり、覚えられるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:「二〇一八年ワシントンDCでの説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/1/29/380980.html)
 
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