文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年10月8日】師父は「人間の感覚はまったく頼りにならないものなので、感覚に頼って修煉するわけにはいきません」 [1] とおっしゃいました。
修煉の過程で身体の感覚には確かにいろいろな感覚があります。体が小宇宙である場合は、この小宇宙の一層一層の粒子は更新する中で、驚天動地の変化が起こっているはずです。この体の表面に反映されたら、それらがしびれや腫れ、痛み、かゆみ、他の不快な状態を感じることになります。この体が佛体になろうとして、身も心も完全に入れ替えなければならず、さて、それでいいのでしょうか?
いつも常人の目線で物事を考え続けていると、修煉の中で魔難が来た時に、もしかすると、病気ではないかと思うかもしれません。これは心が正しくないことになります。
物理的な感覚の他に、精神的な感覚もあります。関を乗り越える中で、また魔難に陥る中では、その気持ちをずっと持ち続けるものとして受け止めてしまうと、苦しみを大きくしてしまい、気持ちを悪くしてしまうのです。それを真面目に受け止めず、ただの感覚であり、何でもないことだと思って、自分を高邁な存在だと思っていると、正念を強めていくと、その感覚は本当に何でもないものになってしまいます。だから師父は「わたしに言わせれば、肉体の苦痛は最も耐えやすく、じっと我慢すれば、何とか耐え抜くことができます」 [1] と説かれました。
様々な苦しみや辛さという感覚ですが、いわゆる苦ではないでしょうか。修煉の中で、苦をなめながら世の人々を救うことができれば、それは楽しいことだと思います。苦しみを楽しいことにするとはこういう意味もあるでしょう。
この事は今日学法を通して学んだことなので、これからも同修と切磋していきたいと思います。適当でないところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』