法輪大法は、私により良い人になることを教えてくれた
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 【明慧日本2020年10月12日】私は1996年の4月に初めて友達の家で「真・善・忍」の三文字を見て、法輪功を学び始め、1997年5月に真・善・忍の基準に従って良い人になり、返本帰真しようと思いました。大法修煉の確固とした道を歩み始めたのは、1999年7月に大法が汚名を着せられて迫害された時からで、あっという間に24年が経過しました。

 この24年間に、私は法輪大法が世界に広がるのを目の当たりにしました。迫害や弾圧される中で大法弟子が依然として嘘に惑わされた衆生を救うという広大な慈悲を見てきました。法輪大法の修煉者として、大法の書籍を繰り返し読み、師父の教えを理解して大法の要求に従って心性を修め、良い人になることから始め、真・善・忍の違う次元の意味合いを徐々に体験し、より良い人になる事を目指しています。

 一、真に相手を思いやる心を身につける

 人から見ると私は思いやりがあり、優しくて親切で、自分でも良い人だと思っていました。しかし法輪大法を修煉してから「真・善・忍は良い人か悪い人かを判断する唯一の基準」 [1]。良い人には判断標準があることを知りました。一人の言動は「真・善・忍」を用いて量り、真の善悪が何かを見分けることができます。

 家庭生活での例をお話します。私の職業は教師であり、子供が5、6歳の頃、私の父は病気でいつも入院していました。自分の仕事が忙しくて毎週20回の授業があり、授業の準備と親や子供の面倒を見なければならず、家に帰ってからは家事に追われました。しかし、夫はいつもお茶を飲みながらテレビを見ており、ほとんど家事をしませんでした。それに機嫌が悪いことが多くて、私の心の中はとても辛くて悲しかったのです。

 ある日、私はご飯を作りながら「なぜあなたは何もしないで選り好みばかりするの。なぜ私が全部やってもまだ不満なの」と思いました。ふっと師父の経文「境界」で「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分は不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」と説かれたのを思い出しました。生命には領域があることに気づき、自分の考えで量り、極端に不公平だという心を持つ事自体が悪者の領域であることが理解できました。自分の思考の出発点は、自分の視点で善悪を見極めているのだと分かりました。自分は苦しまず楽をしたい、それができないと他人、たとえ自分の家族であっても、伸び伸びとした快適な様子をみると心のバランスが崩れました。不満、怒り、悔しさなどが全部こみ上げてしまいました。これが良い人と言えるのでしょうか。全ての悪い態度は、自分が得られないものを他人が得たからだと分かりました。表面上では全てのことをやっており、但し、人のためではなく、仕方がなくやっただけで苦しく感じ、不平不満や悔しさなどを感じていました。自分が真に他人のためになることをしていたら、こんな風に感じるだろうか。普段、自分はかなり良い人だと感じており、何でもやるし大変ですが、しかし大法の基準で量ると自分は善人ですらないことに気づきました。「憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とする」ことすらできないのです。

 このように考えると、自分がどのように振る舞うか、どのように良い人になるのかが分かります。自分は常に他人に良くしてもらいたいと思っているのに、他人のために多く与えると不公平を感じてしまうことは利己的で、自我の表現であることだと分かりました。それから私は真に自分を変えようと思い、夫が不満や愚痴をこぼしたりする時、すぐ内に向けて探します。塩をいれすぎたかな。いい加減にあしらって、良くできていないから満足しないのだろう。他人の態度がどれだけ悪いか、言い方がどれだけ気に入らないかを外に向けて見ることはしません。昔は何か問題があった時には、他人がどう悪いか、どう間違っているかを最初に探しました。今は問題があった時は、まず自分が上手くいかなかったところを見て、自分を正し、自分を修めるのです。師父の法を基準に考え自分を絶えず律して自分を高め、何をしても他人のことをまず考えるようになれば、自分がどんどん良くなり、真に人のために考えるようになります。

 「平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです。日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。したがって、煉功にあたっては、高い、もっと高い基準で自分を律しなければなりません」 [1]と師父はこのようにおっしゃいました。

 クラスの同窓会があって、帰宅が遅くなり電気が消えていたので、私はそっとドアを開けて、トイレに行きました。すると夫が、かんかんになって怒り寝室から出来きて、いきなり私を殴ったのです。今回、私は落ち着いており、彼を恨むこともなく、悔しい気持ちもありませんでした。師父は「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで」 [2]と説かれた法を思い出しました。私は冷静に耐えて言い返すこともなく、自分が彼を傷つけたので、気の済むまで付き合うつもりでした。夫は普段の生活リズムがとても規則正しく、私の帰りが遅かったため彼の休息に影響を与え、また私のことを心配していたのです。内に向けて探すと、普段の自分は体裁を気にし過ぎて、同窓会で他の人が帰らなかったので、自分だけ先に帰れませんでした。夫は家族だから気にしなくて良く、他人には失礼なことをしてはいけないと思いました。実は師父が「どんな環境の中でも人には親切にしなければならず、まして自分の身内のものの場合はなおさらです。親だろうと子供だろうと誰に対しても同じように、何事につけてまず人のことを優先に考えるならば、それはもはや私心ではなく、慈悲心によるもので、慈悲そのものです」 [1]と説かれました。次の日、私は普段通りに朝早く起きて、朝食を用意し笑顔で姑と話をし、子供を見送りました。今まで通りの様子でした。これから、もし同窓会とかがあれば、なるべく皆に迷惑をかけないようにします。家族の気持ちを考え、また友達の付き合いも大事にします。家族は仲睦まじく、そして友情も長く続きます。

 二、嫉妬心を取り除く

 人は社会生活をしている中で、良くない心を多く持っており、自分だけではなく人まで傷つけるのです。嫉妬心はその中の1つです。他人に良いことがあったら、その人のために喜ぶどころか、自分の心のバランスがとれなくなります。人との付き合いの中で、多くのもめごともこの嫉妬心によるもので、お互いに競い合って、多くの葛藤が生じます。法輪大法を修煉してからは、この嫉妬心を取り除かなければ、良い人またはより良い人になれないことが分かりました。

 ある年、学校の年度末評価で二人の優秀な教師が評価されました。ある先生の投票が私より多く、私は心のバランスがとれなくなり、表情も不自然で、笑顔もこわばっていました。これは嫉妬心が邪魔をしていることに気づき、それを取り除かなければいけないと思いました。しかし、どうしたら取り除くことができるのでしょうか。師父は私たちに問題に遭遇したら、内に向けて探すよう求めておられ、自分に原因を探さなければいけません。私はまだ自分の足りない部分を良く考えていないことに気づきました。どのような点でこの先生に劣っているのでしょうか。探しているうちに、多くの問題を見つけました。「自分は業務を完璧にできるよう努力をしなかった、内気な性格で、講義の進め方にも柔軟性に欠けるところがあった、または小さい頃から臆病で、人との付き合いの中で寛大でオープンな態度をとることができず、常に他人から距離を置いているなどなどがありました。しかし、あの先生は自分より優秀で、性格も明るく気配りが良くできて、寛大です」、このように自分の欠点を見て他人の長所を見ると、どこに嫉妬心があるでしょうか。早く自分を完璧にしてレベルアップしたいだけです。

 嫉妬心がなくなり、心のモヤモヤが晴れて清々しく、身体も軽やかで自然に幸せな気分になり、誰を見ても嬉しく、他人の成果を心から祝福したいのです。

 この世の中で社会に汚染され、知らないうちに純粋で善良な本性を失いました。法輪大法と出会って「真、善、忍」の法理に従い、生活、仕事または人との付き合いの中で、すこしずつ自分の考えを正し、生命の本当の意義は返本帰真であることが分かりました。宇宙の真・善・忍の特性に順応できる人だけが本当に良い人であることが分かり、良い人になるには判断基準があり、より良い人になるには更に高い基準で判断されるのです。生活の中でトラブルに遭遇したらすぐ内に向けて探し、自分のどこが不足しているか自身の問題を解決し、絶えず自分の心を浄化し続ければ、良い人、より良い人になれるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『シドニー法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/9/27/410500.html)
 
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