文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年11月6日】昨日、コミュニティーの2人の職員が家に来ていました。2人を家に入れた後、正式な会話を始める前に、私は2人に「私には2人を家に入れることを拒否する権利がありますね」と言い、彼は「確かにそうです」と言いました。そして、私は「あなた達と話すことを拒否する権利もありますね」と聞き、彼らは「はい、そうです」と答えました。
この後、それらの1人が真実を受け入れず、私に逆らって一歩も譲らないにもかかわらず、彼らは常に用心深く受動的な状態であることが明らかになりました。彼らが怖がっていると感じたのは、法律に従うようにと彼らに警告することで、彼らの行動には法的根拠がないことを心の中で分らせたからだと思います。
昨年、私は国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関。以下、国保)に連行され、その度に本市の国保分隊の上司が個人的に尋問に来ていました。尋問中に、私は彼に「あなたが今話したことは将来、あなたを起訴する証拠になる可能性もあります」と言いました。私がそう言った後、彼の表情はすぐに非常に不自然になり、自分を守るため、とても恥ずかしそうに「ほら、それはあなたを連行したのは私ではありません。彼らがあなたを連行したのですが、私はあなたにいくつかの尋問をしただけですよ」と言いました。実際、その夜、連行と家宅捜索を指示したのは彼だったです。
上記のいずれの例も、警官(コミュニティーや職場の人も含む)達は大法弟子を迫害する時、彼らは実に怖がっている、今の行いはいつか自分は法的に裁かれるのではないかと恐れています。それなのに、なぜ彼らは傲慢で強引な行動をとることが多いのでしょうか? それは私たち自分の中に恐怖心があるからです。私たち自身が恐怖の中で身を縮めれば、ある程度は邪悪の要素を放任することになるでしょう。大法弟子を連行して逮捕したことは違法行為であり、将来必ず正義の裁きを受けることを直々に伝えるべきです。
昨日、そのコミュニティーの職員は、私と正式に話をする予定だったのですが、職員は「法輪功について詳しく知りたいのですが、少し質問させてください」と言いました。私は「この話題については話したくないのですが、雑談であれば、話は別ですが、さもなければ、私の家から出ていってください」と言いました。その後は、彼に話をさせないで、何気ない雑談をしている状態でしたが、しかし、私は、その雑談の中でしっかり話していました。
大法に関する質問を断るのは、今の状態では正しいはずだと感じました。彼らが私たちに問いかけに来るという事実は、まさに大法の迫害に現われている旧勢力の仕業です。この質問や尋問というプロセスは、彼らの具体的な迫害行為であり、私がどう答えようとも、彼らの迫害という仕事に従っていると感じています。毅然とした回答をしたとしても、迫害そのものの下での態度を表明することになりますが、旧勢力の迫害を根本的に否定するものではありません。旧勢力の迫害を根本的に否定するためには、まず迫害という具体的な行為を否定しなければならないのです。大法弟子がこのような質問や尋問を拒否することは、この問題における旧勢力の迫害を根本的に否定する唯一の方法です。
これは私の次元での認識です。