「最後になればなるほど、精進すべき」から悟る
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文/琴声  

 【明慧日本2020年11月18日】長い間、自分の意気消沈状態や家族との葛藤という問題についてずっと混乱していました。今日、師父の経文『最後になればなるほど、精進すべき』を暗記したときに、はっと悟りました。

 師父は「これは元々、法を正すことと大法弟子修煉の後期段階の現れです。数少ない一部の学習者、ひいては古い学習者もこの時期、多かれ少なかれ意気消沈状態に陥り、精進の意志を緩めてしまい、これも法を正すことの時間に対する執着、または正しくない後天的観念の妨害によるものだと認識していません。そのため、旧勢力が以前人類空間の表層に残した妨害の要素と邪霊、卑しい鬼に隙に付け入られ、これらの執着と人間の観念が拡大され強化されたことによって、この意気消沈状態に陥ってしまいました」 [1]と説かれました。

 私はこの「後期段階」という言葉を読んで、衝撃を受けました。修煉の後期になって、形成されたすべての概念は修煉者を認識させ、トラブルの中ですべての観念を取り除きます。しかし、最も重要なのはそれを掘り出すことです。掘り出したら、師父が私たちの観念を取り除いてくださることができ、借りは返さないといけないため、最後に、師父が帳消しにすることができます。

 この2年間、私は家庭内の対立の関をなかなか乗り越えることができず、その原因について考えてもわかりませんでした。本当に一つの問題が片づかないうちに,また次の問題が持ち上がってきました。修煉の道では非常にきつく感じたり、つまずいたり、立ち上がると再び倒れてしまい、家族全員が修煉しているのに、20年以上も、こんなに強烈な心性の摩擦がなかったのに、なんで最後になった時に、トラブル、紛争などがどんどんやってきたのでしょうか? 和気藹々とした家庭が崩壊寸前になってしまいました。互いに無視して、仲直りしてから2日も経たないうちに、また別の葛藤があり、骨まで突き刺さるような痛みは黙って耐えるしかないのです。時間を無駄にしてしまいました。そこに何かが隔たっているかのように、法の暗記にすら入れず、イライラしていました。いつも穏やかな夫(同修)は、意見が異なると、大喧嘩になり、手を出してしまったこともあり、きつい言葉を言ってしまい、まるで別人のようでした。さらには娘を追い出して(娘も同修です、人々の目には非常に良い、おとなしい子供である)......。

 今日、私はやっと自分の執着心を見つけました、奥深くに隠されている「私」で「闘争」という形式で現れてきました。私は陰に陽に争っている、気に障ることがあったら、論争します、自分の観念と相反することがあったら、議論します、本当に様々な闘争の形式がありました。ある日、夫は言いました。「あなたは国の大統領ですか? 良いか悪いかはあなたの一存で決まりですか?」。その時、自分の認めたくない競争心がとっくに存在し、それを感じることすらできないことが分かりました。私は夫の言い方、行い方を見下し、夫の意見を否定し、これも同意しない、あれもダメといつも威張る感じです、すべてが後天で形成された概念により、私を左右した結果です。卑しい鬼に隙に乗じられ、トラブルが絶えず生じるため、私の精進する意志を弱め、20年以上の修煉環境が危うく破壊されることになります。

 トラブルの後も考えました。長期的な魔難は一体どういうことでしょうか? 今日、私は深い気づきを得ました。つまり、この後天的に形成された観念が修煉者に影響を与えているのです。師父は「人間は修煉の中で、乗り越えなければならない関門がたくさんあります。人間は生まれてから、人類社会を絶えず認識していく中で、様々な観念が形成され、これによって執着が生じました」 [1]とおっしゃっていました。

 大なり小なり葛藤があるときは、表面上は強気の主張をしているように見えず、長期的な不満の根底には闘争心があることを隠しているため、それを発見したり掘り出したりするのは容易ではなく、何度も何度も深みに潜んで、時折飛び出して妨害をしてくる、今日はこの根っこを掘り起こしてしまったということです。

 師父は「闘争心を無くさなければ、嫉妬心が生じやすいのです [2]と説かれました。また、心が動くと嫉妬が生じるのではないでしょうか? 争いが起きたとき、人は自分の心を保つことができます。一つの心が動かなければ、全ての変動を制することができる! トラブルが生じたときに「人心を真っ直ぐに指し」という法に照らして、自分を修めることがきるようになりました。

 原稿を書くのは初めてです。今まで書いてきた文章は、何の強みにもならない常人の記事ばかりです。この文章を書くとき、情ばかりになってしまうのではないかと不安になり、書こうと思いませんでした。 先日、同修が「内に向かって探しながら純粋な文章をかけるようになるのではないでしょうか?」と言っていました。同修が励ましてくれました。私は明慧ネットの体験文章を読むのが大好きです。私は多くの関に遭遇した時、同修たちの文章を読んでいるおかげで、無事に乗り越えることができました。

 先日、同修の交流記事を読んで、その「恐る」という感情を取り除こうと思い知らされました。旧勢力に押し付けられた物質で、急に私は、ひそかに寂しさを感じ、立っても座ってもいられなくなったりします。今はこのような現象がなくなり、気持ちが落ち着くようになりました。この文章を書き終えたとき、とても心が豊かになりました。書けるか書けないかの問題ではなく、純粋な修煉体験を師父に報告して、純粋な心で修煉者と交流することができました。その過程で、私も師父のご加持を感じて、この初稿を完成させました、師父ありがとうございました!  修煉者の皆さん、ありがとうございました!

 適当でないところがあれば、同修のご指摘をお願いします!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「最後なればなるほど、精進すべき」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語: http://www.minghui.org/mh/articles/2020/11/6/414686.html)
 
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