気付きにくい妨害を見極める
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文/海外の大法弟子  

 【明慧日本2020年11月19日】師父が『二〇一八年ワシントンDCでの説法』の中でこのように仰いました「先ほど話しましたが、低次元の邪悪、低次元の旧勢力も含めて、それらは本当に邪悪です。それらはあなたの修煉を成功させたくなく、あなたを死に追い込もうとしています」[1]

 私はこのことを悟りました。旧勢力の大法弟子への妨害は様々な形式があり、抜け目がないほど、様々な機会に乗じて妨害していますが、私達を成就できなくするためです。病業の関から心性への妨げまで、多種多様な方式を変えながら、あらゆる極端な手段をとり、大法弟子の正念を破壊しています。もし私達にこれらを見極める鋭い眼力と能力が備わっていれば、旧勢力に左右されることなく、自分の正念でこれらの妨害と破壊を解体して打ち破ることが出来るのです。

 皆さんご存知のように、病業関は比較的見分けることが簡単で、透明度の高い妨害です。しかし、もう一種の隠蔽性の高い妨害は極めて惑わされやすく、見分けがつきません、往々にして正念がたりない時に、左右され易く、その妨害を受けて、押し付けられた感覚は自分のものだと勘違いします。修煉の過程で、私達に気分が悪い、焦慮(しょうりょ:いらだちあせること)に駆られ、情緒不安定、気落ちがして落ち込む等の現象が現れて来た時に、正念の強い大法弟子なら、それを糸口として内に向けて探し、このような気持ちが起きた原因を探って、すなわちこの気持ちをもたらしたのはどの執着心なのかを見つけて、問題点を突き止めて、正念でその執着心を取り除くのです。

 師父は「あなたの考えがある種の生命と一致すると、その生命はすぐさま作用を働きますが、あなたは自分の考えの根源がどこにあるのかが分からず、自分がそうしたいからだと思ってしまいます。実は、あなたの執着はそれらに作用を働かせたのであって、それによってあなたの執着を強めたのです」[2]と啓示されました。

 また、私はこのようなことを悟りました。自分の考えが妨げられて見分けられない時に、ほかの空間にいる生命は私達が執着しているその人心を利用して、私達の空間場に良くない物質を投げ込み、私達のその人心を助長します。時には、自分の一念がどこから来たのかについて、考える余裕すらないうちに、自然にその一念は自分が発したものだと思い込み、何も考えずにそれに従い、陥って抜け出せなくなるのです。しかし、その一念はいったいだれのものなのか、真の自分が発したものなのかについて、私達は考えたことがあるでしょうか? 師父がこのように仰いました「もし、この後天的な観念が強くなってしまうと、この観念が逆に、人間の本当の考えと行ないを支配するようになりますが、この時、人はそれを自分の考えだと思ってしまいます。ほぼ、すべての現代人がこのようになっているのです」 [3]気分が悪く感じたその感覚は、確かな感覚です、自分の心が辛く感じているので、なお見分けがつかないのです。

 病業関であれば見抜くことが出来ます。それが妨害だと認識していれば、直ちに発正念をして、執着を探すことができます。しかし、着実に修めてきた修煉者を除いて、このような瞬時に消え去る法に沿ってない一念、あるいは常人の気持ちに対して、即、捉えること、更にこれは妨害だと確信することがとても難しいのです。

 それゆえに、直ちにこの妨害を見抜くことが出来なければ、自分の考えはその一念について行き、あるいは自分の行動はその一念に従います、それは既に妨げられているのです。直ちに見分けることが出来なかったので、取り除くことも考えません。その執着或いは観念が助長され続け、自分を辛い境地に陥れるのです。一部の学習者は暫くの間、心の辛さを緩和しようと思い、常人の方法を使って逃避しています。例えば、動画を閲覧したり、ネットショッピングをしたり、携帯を弄る等です。しかし、動画を閲覧させ、携帯に触れさせるその意念自身が私達の真の自分からのものではないのです。間違いなく、この一念は外来の妨害です、それに従ってしまえば、旧勢力の罠にはまるのではないでしょうか? なぜならば、旧勢力は私達を精進できなくし、落ちて欲しいのです。しかも、常人の方法を用いて、暫くの間は悩みを忘れさせ、苦痛が緩和されたように見えますが、実は問題が何も解決されないだけではなく、ネット上のものは人間の様々な七情六欲を引き起こして、執着と思想業力を益します。さらに、一部の学習者はそれが原因で立ち直れなくなり、修煉状態が日増しに悪くなっていきます。

 また一部の学習者は極限まで苦痛に耐えて、ようやく自分の何処かがおかしい、修煉者にあるべき状態ではないと認識します。しかし、その執着は既に強大になり、自分の意念から生まれたよくない物質が執着心にとって、エネルギーの補充となったのです、今度その思想業を取り除く時、恐らく更に困難になります。

 自分の身体の業力について、結跏趺坐をして両足を組む時に生じた痛みのような業力について、私ははっきりと理解しており、身体の苦痛は歯を食いしばって、我慢し続ければ、業力を取り除けば良いのです。それと同じように、思想、或いは精神の中で形成されたその業力と物質も苦しみを味わうことを通じて取り除くのではないでしょういか? その苦しみは私達に気分を悪くさせたり、気を沈ませたり、消極的な気持ちを持たせたりします。このような心の顕れは一つの苦しみだと認識しても良いのではないでしょうか? それを取り除いてからようやく良くなるのではないでしょうか? 身体の苦しみを取り除けば、身体にあった痛みが消えます。それは業力が取り除かれたからだと私達ははっきりとわかります。心の苦痛が取り除かれた感覚は心が明るくなり、物事に悩まされなくなり、心が軽やかになった状態です、その状態も業力が取り除かれた顕われだと思います。

 師父が「皆さんに教えますが、本当のところ精神と物質は同一のものです!」[4]と仰いました。師父は、またこのようにも仰いました「麻薬の成分は体内に摂取されると、あなたの体の中に薄くて淡いあなたを形成しました。毒性が強いから、一回でできてしまいます。二回目摂取すれば、この薄くて淡いあなたが少し濃くなります。吸うたびに濃くなり、ますます濃くなり、逞しくなっていきます。このもう一人のあなたは人体のすべての構造、思惟まで備えており、麻薬の魔性によって構成されたあなたになります」 [5]

 私達の良くない考え、執着、観念等々は自分の思考と精神においても同じ物質を生じました、甚だしきに至っては、そのような具体的な思惟を持つ身体が既に形成されていたのでした。私達には見えないため、そのような身体が物質或いは業力で形成されたこととそれを取り除くことが必要だと確信できません。しかし、それが肝心なのです。したがって、自分の思惟において、考えの中の良くない、法に沿ってない念頭、いわゆる気分がすぐれない、消極的な気持ち等々が業力或いは良くない物質です。はじめから真の自分ではないと見極めることが出来れば、それらを取り除くのも難しいことではありません。

 ある気持ちは真の自分からのものではないのだと見極めた経験をしました。その気持ちの背後の執着を見つけ出したあと、本当の自分が偽物の自分から抜け出して、偽物の自分をみていると、その偽物の自分は善の心を持てず、抱擁力を持たず、完全に私の為のものであることに気付きました。内心から「それは本来の自分ではないはず、その偽物の自分は要らない」と感じました。このように、はっきりと自分の身体からその気持ちを脱離させることが出来ました。

 師父が仰いました。「なぜ精神病患者は済度し難いのでしょうか? 彼は全く見分けることができないからです。思想業力、自分ではない考えを見分けることは新しい学習者にとって難しいことです。これができれば、本当に素晴らしいのです。大法をもって量ってください。実は全ての良くない考えは、みなあなたではないのです。あなたはこれをやり遂げることができれば、既に見分けることができたのです。『この考えは良くないので、滅してしまい、取り除くべきであり、私はこのように考えてはいけない』という具合です。これは即ち思想業力を滅しているのです」 [6]

 見分けることは第一歩であり、肝心な一歩でもあると認識しています。なぜならば、それは自分ではないと見極めることが出来れば、師父が取り除いてくださるからです。私達は自分の正念で取り除いていくことと発正念をする過程の中で、徐々にそれらを取り除くことも出来ます。しかも、師父が法の中で私達に啓示されています。「実は全ての良くない考えは、みなあなたではないのです」 [6]

 私達の修煉は既に最後の最後となり、法を正す時期の大法弟であるべき基準に達するために、更に高い基準で自分を律しなければなりません、如何なる良くない考えにも左右されてはなりません。

 多くの同修は執着心を見分けることが出来ますが、気分が優れない、消極、意気消沈、苛立ち、焦慮、退屈等々の人間の気持ちが襲来する時に、見分けることが出来ません。その気持ちに陥り、抜け出せないため、精進できずにいます。修煉状態が良くないので、衆生を救い済度する効果にも支障をもたらしてしまいます。

 これはまた異なった、なかなか見分けがつかない、もう一つの妨害形式なのです、このような状態が現れている同修に注意を呼びかけます。この状態から脱却し、修煉者にあるべき状態で、師父が法を正すこの大きな流れに集中しましょう。

 次元に限りがありますので、以上は個人の次元での悟りですので、不適当なところがありましたら、慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『2018年ワシントンDCでの説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「誰のために存在するのか」
 [4] 李洪志師父の経文:『ニュージーランド法会での説法』
 [5] 李洪志師父の経文:『2019年ニューヨーク法会での説法』
 [6] 李洪志師父の経文:『米国西部法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/9/26/412298.html)
 
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