信念を守るために親孝行ができない時
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年1月30日】法輪大法が迫害されてから今日に至るまで、両親の気持ちや境遇を考え親孝行しなさいと、職場の上司、同僚、警察官、刑務所の看守、刑務所内の囚人、さらに私の両親まで多くの人から言われています。

 彼らは真摯な気持ちを持ってこの話をしていると思います。しかし、どんなことがあっても法輪大法の修煉を決して放棄しないと私が意思表明をすると、彼らは様々な反応をしました。ため息をついた人、何も言えなくなった人、興奮して私を殴ろうとする人もいました。様々な反応を見て、彼らの内心にある善良さを感じ、「親孝行」に対して彼らの理解が偏っていることに心が痛みました。

 中国南宋末期の軍人・政治家である文天祥は、忠節を守り、獄中で後世に名を残す名編『正気の歌』を創作しました。中に「在斉太使簡」の一句があります。春秋時代に史事を記す太史伯氏は、大臣・崔杼に脅かされても屈服せず、崔杼が国王を殺した事実を正確に記載し続けて殺害されました。彼の2人の弟も強暴を恐れず、同じように事実を書き、また殺されました。3人の兄が次々と同じ理由で殺されたにもかかわらず、一番下の弟・太史季氏が依然として事実を記載し、崔杼は結局、太史季氏を殺さずに、記述を止めさせる事を諦めました。

 ここで問題になるのは、その4人兄弟はどうして親の気持ちを考えないのでしょうか。彼らが死んだら誰が親の面倒を看ますか、親不孝な人間になってしまったのではないか、もちろん違います。彼らは人間としての道義を守ったからです。道義の価値は計り知れないもので、道義のために払った代価は一般の意味の損得で計れるものではありません。道義を守るために命まで捨てた義人は相当大きい徳を積むことになり、彼らの親も同様に巨大な福報が得られます。ただし、その福は必ずしも現世に現れるとは限りません。

 東洋においても西洋においても同じ道理です。私が刑務所で不法拘禁されていた間、刑務所には囚人が持っていた『聖書』がありました。『マタイによる福音書』の中の「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々な悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜べ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」という言葉を見て深い印象を受けました。私はこの言葉を見つけたのも偶然なことではなく、われわれ大法弟子は道義を守るために代価を払っていること、われわれの両親も同様に多くの苦しみを嘗めさせられることは道義のために代価を払うことであり、将来必ず福報があることを、師父がご教示くださったのだと感じました。

 常人は名利のために生きていて、親孝行をするのも常人レベルの情のためであり、両親の情を満足させるためでもあります。この情はまた因縁関係によって生まれ、現世にだけ存在し、来世に持っていけるものではありません。一方、われわれ大法弟子が法輪大法を守って得られる福報は、両親に贈ることになります。それは人間の世界で親孝行して、親に幸せを享受させることこそ良いことです。

 正見ネットに「『親孝行』について」という文章に「法輪功の真実を親に伝えて、親に『三退』をさせることは、古人がやりたくてもできない最上級の『親孝行』となります。親が法輪功迫害の真実を理解して『三退』を選択した後、その生命は神に管理されることになります。それは、いくらお金をかけても得られない良い未来なのです」と書かれています。

 もちろん、常人社会の中で修煉する以上、「三つのこと」をしっかり行うと同時に親や子供に優しく接しないといけません。また、彼らに「親孝行」と「信念を守ること」の関係を説明する時は、神を基本的に信じているので法や方法に注意を払い、彼らが理解できる形、例えば前述した古人の対処の例を借りて説明するのが良いかもしれません。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/1/16/418573.html)
 
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