文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年2月14日】最近、悪事を働いた者が悪の報いに遭遇したことを目にして、自分に忍びない気持ちと申し訳ない気持ちが生じました。「私がもう少し努力していれば、その人たちは変っていたのかもしれない、今のようなことが起きなかったのかもしれない」と心を痛めていました。しかし、私のこの思いが理智のない考えだと気付きました。この気持ちを持っていることで悪人の悪を増大させ、善良な人々をおろそかにしたのだとわかりました。
家族のことについて話したいと思います。母は家の全てのことを諦めました。父と離婚した時に身一つで家を出て、苦労を嘗め尽くしました。しかし、母の寛大さは父親側一家の私利私欲、貪欲さを助長したようでした。父は株の投資で、大金をつぎ込み、失敗しました。それでも十分裕福な暮らしをしています。父は自分の父親の面倒を見ながら、2人で一戸建ての中古の家で暮らしています、家の中には古い家具と古い電化製品があり、生活は困窮しているように見えました。母の生活環境は日に日に良くなり、貯蓄は多くないのですが、満ち足りた日々を送っていました。母は父のことを不憫に思い始め、自分がよく行えなかったから今の事態を招いたのだと考え、父の家族に良く接するようになり、お葬式や、結婚式など、行事がある度に金銭を出していました。徐々に、父の家族は自分達で財産の管理だけをして、父と祖父の老後の面倒は母と私に見て貰おうと考え、母と私を頼るようになったのです。私に断られた後、彼たちは「君のお母さんは自業自得だ」と惨い言葉を投げかけました。
一部の同修にもこのような状態があります。家では苦労を厭わずに、苦しみに耐え忍んでいます。家族は却って徐々に堕落して、大法弟子に「良い人間」になってもらい、自分達は外で道楽にふけり、出来る限りの手段を尽くして大法弟子のお金を自分達の懐に入れようとしています。自分で金銭の主導権を握っている同修や、離婚後、子供の生活費を相手から支給されている同修は僅かです。
私の観察では、このような同修の家族は大まかに二種類に分けられます。一種は大法のことを認めておらず、このタイプの人の行動の表れは非常に極端であり、ゆえに区別し易いのです。このタイプの人は大法弟子を罵ったり、殴ったり、暴言を吐いたりします。そして、悪だくみをして、大法弟子を陥れるのです。
もう一種の人は、まず言動に顕れてきません。うわべでは大法弟子とよく折り合い、大法を称えて激しい行動や発言はしませんが、同修達の優しさと人情を利用して自分の目的を達成します。あらゆる方法で同修達に指図し、同修達を極めて低い立場に立たせます。自分の目的を達成できなければ、本来の姿を顕し、大法を罵るようになり「自分達がよく行えなかったため人を救うことができなかったのだ」と間違った認識を同修に押し付けているのです。
上で述べた2種類の人間は、同修達を困らせてばかりいます。同修は自分の修煉に賛同してもらうために、大量の時間と精力を、その人たちのために使い果たしました。しかし、その人たちは味をしめて、更に堕落していくのです。その人たちは悪い報いを受けるまで、暴力と刺激的な言葉を操って自分達の目的を達成するのです。当然の報いを受けても引き続き同修を困らせるのです。なぜならば、同修は「もし自分がもっと良く行うことが出来ていたら、その人たちを変えることがてきていたのかもしれない」と自分を責め立てて彼らに哀れみをかけるのです。冷静に考えてみれば、同修達のこのような考えは自らを欺く考えにすぎません。この考えがもたらした結果は、大法弟子自身の観念の変異とその人たちに振り回され続けることだけなのです。
私達は個人修煉の段階にいる修煉者ではありません、私達は法に責任を負わなければなりません、世人に責任を負わなければなりません。往々にして物事は想像だけで素晴らしく見えるのですが、実際、道徳が低下した人間の道徳水準は私達の想像にも及ばない程です、低下した道徳はその人が大法の真相を知ることを妨げているのです。
長い間「何故自分はもっと良く行えなかったのだろう? 何故私はもっと多くの衆生を救えなかったのだろう?」と自責の念に駆られて、絶望的状態に陥っていました。師父の啓発と同修の助言から、自分は今までずっと道徳の低下した人間に振り回されていたことに気付きました。その人達は世話がかかる人間で、口が達者です。しかも、それらの話は一見したところ道理にかなっていて、また、専ら大法弟子のあらを捜します。大法弟子は良い人間になるために、徐々にその人たちに振り回されるようになり、衆生を救い済度することに支障をきたしたのです。
無意識のうちに道徳の堕落した人間に振り回されるようになったため、自分の考え方が変異し、法理を思い出せない時すらあります。法を読んでも理解できずに自分を駄目にしてしまいました。
『悪魔が世界を統治してる』社説を読み、私はこの変異に気付きました。これ以上これらの道徳観念の薄れた人に頭を下げていてはいけません。私達は主役であり、この人達を変えることが出来なくても、彼たちに変えられるようではいけません。その人たちから遠ざかり、離れることが出来なければ、その人たちに自分に責任を負うようにしてもらうのです。もし理不尽なことを言われたら、自分の心が動かされないように、その人たちに関わらないようにするのです。自分のやるべきことをしっかり行い、手を出しすぎないように適度に助けるべきです。私達は自ら自分を責める必要はありません。慈悲心を持ちその人達に道理をはっきりと教え、どうしても救えなければ仕方がありません。どの様に選択するかは、その人たち自分自身のことなのです。たとえその人達を救えなくても、自分を台無しにすることは出来ません。同時に他の良い人達、私達とその同修達も壊滅させられ道連れにされてはなりません。