「忠」も一種の道徳と境地
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 【明慧日本2021年12月24日】「忠誠」も一種の道徳であり、境地で、信と善の体現で、真・善・忍を体現しています。例えば、職責に忠誠を尽くす、任務を堅守する、困難を克服し、執着を放下して自分の所属するプロジェクトに責任を持つ、忠貞、力を合わせて困難を克服する等で、どれも「忠誠」がその中に含まれています。現代の人はよく「転職」していますが、実際はやはり「忠誠」の品徳を失っていて、当然ながら「転職」は、「こちらの山から見ればあちらの山が高い」、「お金を多くもららえるところにいく」ということです。このような行動の中には、また他の要素があって、例えば、責任感、粘り強さ、誘惑をどのように見るか等、ここでは多くを言いません。どんな概念も常人の中では、常人の心と人の情が絡み合い、全て他の意図と結果を生みだすので、この問題の議論はほとんどしません。

 個人的に、「忠」は、修煉の高い境地だと思います。大法弟子は岳飛(がくひ、南宋時代の武将)が皇帝に忠誠したように、師父に忠誠するべきです。秦檜(しんかい、南宋の宰相)が岳飛を陥れたことを皇帝は知らなかったと思いますか? それで人々はこの皇帝が暗愚な君主であると思っています。しかし、岳飛が演じた「忠」は、後世の知恵がなく心がしっかりしていない大法弟子の修煉の参考になります。これらの大法弟子は、たとえ師父を疑ったとしても、師父に忠誠心を燃やさなければ、修煉していけなくなります。

 2千年の王朝で、多くの忠臣が皇帝に殴られ、冤罪を着せられ、処刑されても、彼らは少しも皇帝に対する忠誠心を変えませんでした。後世の多くの常人はこれを、愚かな忠誠と思っていますが、常人は「忠」が高く深い大法の一つであることを知りません。生命にとって、自分の主に対する愚かな忠誠は全く存在せず、それは「忠」の最高の境地です。歴史は無駄に演じられることはなく、岳飛が演じた『忠孝節義』は、なぜ世間で傑作だとされているのでしょうか? 人類に長い間伝え称えられているのでしょうか? なぜなら弟子が師父に接する根本だからです。

 岳飛は師父が転生されたのであって、後世の大法弟子のために、最後の修煉時期の参照となるよう、師父は身をもって演義の「忠」を現わして下さいました。しかし、何人かの大法弟子は心性が低いため、理解に誤りがあり、師父に対し、大法に対し、ますます信じることが難しくなり、師父がますます厳しくなっていると感じている彼らは、良い言葉を聞きたいのです。これは自分の心性の基準で師父を量っていることであり、全く修めていないことになります。師父を量るとは、師父より高いとでも言うのですか? しかし実際は、自分は地上で這いまわっている全宇宙の最低次元の生命で、何の力もないのに、どこが高いのでしょうか?

 ミラレパの師父は、この手あの手でミラレパに難題を吹っ掛けました。常人から見ると理解できず、道理がない、人間としての基本修養も備えていない、仁義の善心もない、とても悪い、常人はこのような師父を「誰が信じるのか」と思っていて、信じないだけでなく、誹謗中傷し、偽物だと思い、本当の佛ではないと思っています。私たち今日の一部の大法弟子は、このような常人の心性の状態になっているようです。

 師父の考えは弟子たちに分かるものでしょうか? 弟子の執着を取り除き、弟子を圓満成就させるため、弟子を救うことであればそのように随意に用いて行われます。私たちのどのぐらいの大法弟子が、その法理を理解できますか? どのぐらいの大法弟子が、大きな圧力に対応する中で確固としていられますか? ある人は、師父がまるで自分の友達のように自分に接してほしいと思っていて、優しく尊重してほしい、師父に対等に接してほしいと思い、そうでなければ師父を受け入れられず、師父に対して疑い、信じず、これもこの心の体現ではないですか? ミラレパの師父は、弟子のために業力を消し、執着を取り除き、常人からしたら悪人のようで、ミラレパももう少しで耐えられなくなりそうでしたが、ミラレパの良い所は、それでも師父を確固として信じたところです。この一点の堅持で、彼は淘汰されなかったのだから、本当になんとも不思議です。

 一部の同修に対して言うと、私たちはちょうどこのような試練があり、修煉の関があります。同修たちが落ちないことを願い、少なくともミラレパより良くなるように願っています。

 本文は個人の次元での認識で、師父の大法はまだ更に高い内涵があります。

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/12/16/434871.html)
 
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