文/中国の大法弟子
【明慧ネット2021年9月26日】この数年、当地の多くの高齢の同修は身体上に異なる度合いの魔難が現れています。迫害で世を去る人もいれば、長期間、魔難の中にいる人もいます。法に則って向上し、まさに魔難から抜け出した人もいます。
私個人から見て、これらの高齢の同修は観念が強く、自我が強いにも関わらず、何が人の観念なのかが分かっていませんし、自我が何なのかも知りません。人間の理の中でぐるぐる回っていて、人間の情の中で、個人の損得ばかりにこだわって出られません。多くの苦を舐めたにもかかわらず、その過程の中で多くの恨みを生じさせてしまい、心性から本当に向上しておらず、得失の中で、人間の観念の中から出て来られません。
いかにして人間の表面の殻から抜け出すのでしょうか? 人間の表面のこの殻とは何でしょうか? 私個人が法の中で悟ったことは「人の表面のこの殻とは、私たちが生生世世の輪廻転生の中で、人の思惟、人の観念、人の理、人の情、人の執着、人の欲望などを構成している偽物の我なのです。千百年来、私たちは絶え間ない輪廻転生の中、自我(偽の我)を取り囲んで保護しています。この自我を保護し、この自我を実証し、この自我の為に生きて、しかも私たちはまさに自己をそれら人間の観念によって埋もれさせています。私たちが法の中で向上しさえすれば、この偽りの我から出て、人間から抜け出せるのです。
私の現在の次元での悟りでは、もし修煉する人がいかなる事に出会っても、師父のこの段落の法に基づいて行い、行う事ができれば神の基準に達することになるのです。しかしながら、魔難の中にありながらも歩んで来られた同修は皆師父の法に基づいて自己を正し、謙虚な気持ちで、他人を考慮し、身体上の魔難の中にあっても、なお他人を思いやっています。同修が言うことには、法に則って行い、自己を低くおき、学法、煉功、発正念を堅持し、内に向けて探しさえすればよいのです。
常人の中の言葉にも「あまり自信たっぷりでは損を招くことになり、控え目のほうがかえって得をする」「満ちれば欠ける世の習い」というような言い方があります。他の人の言うことを聞き入れなければ、それは強大な自我が立ちはだかっているのかもしれません。あなたに自我を堅持させ、自我を放棄せず、自分が正しいと思い、同修のことが気に入らなくなるのです。
師父は「実はわれわれがたとえ誰が、どうであろうと、法があれば、この大法に従って、行いさえすれば、本当に基準に達することができるのです」 [1]、とおっしゃっています。同修が言うことが法の上にありさえすれば、聞き入れなければならず、そうして法の中で絶えず自己を正すことができるのです。
ここで指摘している魔難の中にいる同修はぜひとも、求める心を捨てるよう修煉しなければならず、結果や変化を求めてはいけません。師父の説法の中で、私が悟ったことは、求める心と恨む心は互いに依存する存在で、恨みの心は求める心によるものです。私たちは修煉の中で求める心を捨ててこそ、求めずとも得られるのです。魔難の中にいる同修は、安易に求める心を持って学法や発正念をしており、効果が見られないと、意気消沈し、師父を恨む心さえ生じさせており、それは大変危険なことです。旧勢力に弱みを掴まれる可能性があり、さらに魔難が大きくなるのです。
様々な過程の中で、たとえ魔難の中にいるにもかかわらず、さらに同修を助けようとする同修もいます。私たちはやるべきことをひたすらやればよく、自我を放下し、求める心を放下し、師父と法を信じ、一切のことを師父にお任せすれば、師父はきっと私たちを支持してくださるはずです。
当地にはさらにこのような同修がいます。疫病が蔓延している期間、家が封鎖されていました。外出禁止令が解除された後、私たちがこの同修に会ってみると、本当に驚いたことに、同修の顔色は非常に悪く、痩せこけて風が吹いたら今にも倒れそうでした。まさに一刻の猶予もない感じでした。
2人の同修がこの同修を我が家に連れて来て、この同修と励まし合いながら内に向けて探しました。この同修は久しく眠れていなかったので、夜は特に痛みが酷く、少しも寝つけず、なにを食べても痛みがありましたが、少しばかりの粥を頑張って食べました。夜は痛みで眠れないためずっと師父の説法の録音を聞いていました。
この同修は普段、自分に対して厳しく、学法、煉功、真相伝えにも出かけ、すべてちゃんとやっています。当地区で最も早く家を出て対面で真相伝えをしている同修でした。しかし、私個人からみると、同修は家族との関係が望ましくなく、家庭内の多くの事を引き受けていますが、彼女は心の中では家族に対する恨みを放下していません。私がいつも感じるのは、彼女は家族の前ではいつも真、善、忍を表現していますが、真、善、忍に同化しておらず、家族に何も口答えさせませんし、心の中は不平だらけなのです。
同修が我が家に来た後、私たちとその同修は励まし合いながら内に向けて探し、学法、煉功、発正念を堅持しました。ところが6日目の朝の煉功の時、その同修の状態は非常に悪く、ベッドで腹ばいになってしまい、煉功を最後までやり終えることができませんでした。その時、私はちょうど煉功の第二式の抱輪を煉っていたので、頭の中で、彼女はどうしてまだこんな状態なのだろう、原因は何なのだろうか、と考えていると、師父の経文の中のある一節の法が頭の中に入って来ました。「精進していない大法弟子、極端に走る大法弟子は直ちに、自分を正し、誠心誠意に法を勉強し、修煉してください。なぜならば、このような弟子は最も危険だからです」 [4]
この同修が精進していないというわけではありませんが、家族に対する問題において、彼女は極端に走っているといえるでしょう。「直ちに、自分自身を正してください」 [4]、師父の経書の中のこの言葉は繰り返し私の頭の中に現れました。振り返ると、同修を我が家に迎えたばかりの時、頭の中で、ある念が閃きました「同修が我が家にいられるのは多くて7日間だけです」。その当時はどうしても7日間でした。当時の私には旧勢力はすぐに彼女に手を下すであろうという、強烈な感覚がありましたので、私は心の中で焦っていて、目から絶え間なく涙が溢れていました。心の中で師父に向かって合掌し、師父ありがとうございました、と呟きました。
私は、7日目になったんだと思いました。別の同修がその同修を朝早くから急いで迎えに来て家に送って行ってしまいました。まだ半日あるから同修に自分自身を正してもらおう、急いで戻ってもらい、彼女に自分を正してもらい、家族に対して自分の間違いを認めてもらおう、と思いました。同修でもある私の母親は、私が台所で泣いているのを見て(私は彼女に朝ご飯を食べてもらいたかったのと、彼女にまた戻って来てもらいたかった)、「泣かないで。彼女を連れて来た同修を訪ねて相談してみなさい。迎えに行った人に送り返してもらうのが一番いいから」と言いました。私は大急ぎで同修を探しました。私が同修を見つけた時、同修は「私たち2人で一緒に行きましょう」と言い、私も今日一緒に彼女を迎えに行って、彼女の家族に説明しなければいけないと思っていました。
同修は家に戻った後、誤解を解き、家族に向かって謝りました。その時、やっと私は胸のつかえがおりた気がしました。それまでの過程の中で、同修は家族に強行に病院に入院させられるところでしたが、同修は正念を固め、師と法を信じました。病院で、彼女は病室にいた付き添い人と患者に真相を話しました。多くの検査を経た後、病院は手立てがつかず、医者は「手術が必要だが、前日、若い人がその手術で亡くなってしまったので手術はお勧めしない。もし水が飲めるようなら家に帰りなさい」と言いました。
同修は家に戻った後、正念を固め、法に則って修め、病気を認めず、学法を堅持し、辛いことや苦しいことがあっても愚痴をこぼさず我慢しました。また、病院が処方した栄養補助食品を他の人に送ってあげました。次第に、彼女はケーキも食べられるようになり、その後は何を食べても痛みがなくなりました。体重は一気に増えて、4カ月で元の体重の70キロまで回復し、家族は大法の奇跡を目の当たりにした証人となったのです。現在同修は精進し、師父を助け法を正す道を歩んでいます。まさに「弟子正念たりれば、師に回天の力あり」 [5]です。
師父は刑務所の巣窟に対して、このような説法を説かれておられます「その場所は邪悪が最後に救っている黒巣であり、それぞれの大法弟子が直面している状況はいずれも違うので、何があっても自分が大法弟子であることを忘れてはならず、法を第一位に置くことができれば、正念を保つことができ、邪悪を食い止めることができ、邪悪を前にどのように行うべきかが分かるようになります。しかし、状況は複雑であり、状態が異なるため、本当に命を失う人がおり、ひどく迫害される人もいます。それぞれの状況が違い、それぞれの歴史上の状況があり、さらに旧勢力は大法弟子が騙された状況下で按排したことがあるため、これらのことはとても複雑な状況を作ったのです。どんなことがあっても心の中に大法があれば、必ず乗り越えることができ、命を失っても位にもどることができ、一時的に愚かになったとしても、最終的に乗り越えることができます」 [6]
師父のこの段落の法によって、私は身体上の魔難の中にいる同修と同じく、たとえ更なる艱難があっても、妨害がどんなに大きくなっても、正念を失ってはならず、心の中に法を入れ、法を一番に置かなければいけないと思いました。私が家庭の魔難の中にいた時のことを覚えていますが、私が最も苦しかった時、同修がこのような話をしてくれました。「たとえどんな時であっても、たとえさらなる艱難があろうと、いつも法を第一位に置き、大法にマイナスの影響を作ってはいけません」
同修のこの言葉は私の大きな助けとなりました。当時、私はこのように考えました。「私個人のことはどうであろうと重要なことではない。たとえさらに大きな耐え難いことがあったとしても、私は自分の行動が大法にマイナスの影響を与えるようなことだけはしてはいけない」というまさにこの一念は非常に艱難な状況下で、私に自我を放下させてくれました。師父が私を加持してくださったお蔭で、魔難から抜け出すことができたのです。
さなぎから蝶に変わればとてもすばらしいことです。私が思うには、これは質の変化における一つの向上です。地上で這っている毛虫が蝶に変身すれば、この生命にとっては中身が変わって新しく生まれ変わったと言えるでしょう。しかし、もしその殻を噛み切らなければ、さなぎは殻の中で死んでしまうでしょう。修煉する人は人間から出るように修めて神になれるのです。人間の中で形成した一切を捨て、人間から抜け出るように修めてこそ神になれるのです。
個人の現段階での悟りですので、不足があれば、同修のご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「警告」
[3] 李洪志師父の経文:『2018年ワシントンDC説法』
[4] 李洪志師父の経文:『理性』
[5] 李洪志師父の著作:『洪吟二』「師徒の恩」
[6] 李洪志師父の著作:『各地の説法九』「2009年ニューヨーク国際法会説法」