日本の新しい学習者 大法と縁を結び 三つのことをしっかり行う
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2021年2月24日】私は日本人学習者です。2020年の春に縁あって、法輪大法に出会いました。大法に出会ってから修煉を始めるまでの数日間は、今思えば何かに導かれるようにことが進んでいました。慈悲なる師父が結んでくださったこの上なく貴重な機縁に改めて感謝したいと思います。

 ある日、ネットサーフィンをしていた時に、たまたま法輪大法を見つけました。妙に気になり、あれこれと調べたのですが、その時は調べただけで終わってしまいました。

 ところが、翌日ネット上で好きなミュージシャンのライブ映像を見ていた時、そのミュージシャンが「Falun Dafa」と書かれたTシャツを着ているのを見つけました。ハッと驚いて思わず声をあげてしまい、不思議に思うと同時にとても嬉しくなったのを覚えています。後で調べたところ、そのミュージシャンは法輪大法の修煉者でした。

 そこで、すぐに煉功点の責任者に電話をしました。「どんな人が出るだろうか」と少し不安もあったのですが、電話に出てくださった同修のTさんの声を聞いた時に、その不安は消え、とても和やかな気持ちになりました。そして電話をしながら「ああ、やはり、僕が求めているものは多分これだ!」と思いました。今思うとあれが大法の正のエネルギー、正念を感じた最初の体験だったと思います。

 数日後、公園で貫通両極法の動作を習い、下腹部で法輪を回していた時、お腹のところで何かが大きく動くのを感じ、驚きました。すべての動作が心地よく終わったあと体がとても軽くなったのにも驚きました。ただ事じゃないことがわかり、家に帰って『轉法輪』を読むことにしました。当時「法輪功っていいな! もっと知りたいな!」と感じていました。

 その翌日、映画館で『馬三家からの手紙』を鑑賞しました。それは確かに煉功点で動作を習った帰りの電車かどこかで、映画情報をチェックしていた時にちょうど見つけました。当時はただ「法輪功に関係した映画を今新宿の映画館で上映しているらしい」といった程度の前情報で見に行きました。自分はそもそも映画が大好きで、大学でも映画の研究をしていました。また所属していた政治学の分野で中国の政治を研究していたこともあって、常人社会における人権問題にとても興味がありました。

 映画を見た時に何よりも一番感激したのは孫毅さんが体現された真・善・忍でした。普通の常人であれば、あれだけの経験をすれば一生トラウマになってもおかしくないはずです。自分を痛めつけた収容所の職員に、心を開いて再び会いに行くことなどあまりにも難しいと思います。しかし、孫毅さんは強い「善」の念で「真」なる言葉を語り、かつて孫毅さんに暴力をふるった男は涙を流して自分の行いを悔いていました。

 ここまで鑑賞した時、思わず「(あの男は)かつて孫毅さんに対してとんでもない拷問を行ったくせに、今更泣くなんて図々しい」と思ってしまいました。しかし、スクリーンの中の孫毅さんを見ていてそんな自分の考えが恥ずかしくなりました。

 孫毅さんは「いくら中共が悪で、共産邪霊が悪であっても、邪霊に操られている人間が決して悪なのではない。中共に従う人間も本性は善であり、佛性がある」とはっきり認識した上でこのことを行ったのであり、これだけのことを成し遂げるのにどれだけの「忍耐」をもってあらゆる心を放下したのだろうと思った時、彼の背後にある大法の奥深さを感じました。

 確かにこの映画はあくまでも常人を対象としており、人権問題を以って中共の邪悪さを暴露するために作られたもので、大法の奥深さを直接紹介するような作品ではありません。しかし、大法の一分子として真相を伝え衆生を済度している孫毅さんの姿は大法の威徳を現し、そのまま私の心に響きました。私もある意味で、孫毅さんを通して、この上なく貴重な手紙を受け取りました。

 『馬三家からの手紙』を鑑賞して以降、それまでの「法輪功っていいな」と感じた程度だった自分の修煉に対する思いに敬虔さが加わり、修煉者としての自覚もだんだんと芽生えていきました。

 修煉を始めてからすぐいわゆる外出自粛の時期が始まり、最初に動作を習って以来、公園に煉功に行く機会はしばらくありませんでした。2020年6月に久しぶりに同修の方々と会った時、発正念と真相伝えについて初めて詳しく聞きました。

 最初、発正念について聞いた時、自分の中に迷いが生じました。「いかなる魔難にあっても、内に向かって修め、外に求めることはせず、心性を修めなければならないのに、なぜ魔を功能で根絶していいのだろうか。しかし同時に、実際に大陸では同修が大変な目にあっている。目の前で起こっている殺人や残虐行為に対して何もしないのは、善を修める修煉者である自分にはあるまじきことだ。どうすれば外に求めることなく発正念できるだろうか」などといった考えが頭の中を駆け巡り、発正念に関する経文もしっかりと理解できませんでした。

 そこで自分はとにかく何よりもそれまでに自分が感じることができた正念を信じることにしました。最初電話でTさんから感じた正念、煉功で良い状態に入った時の正のエネルギー、良く学法できている時に感じる素晴らしさ、スクリーンの向こう側から伝わってきた孫毅さんの正念、等々。大法弟子であるならば自分も正念を持てるはずだと思いました。すると自然と落ち着いて発正念をすることができました。それはとても心地が良いものでした。

 それから師父の各地の説法を読んでいく内に発正念についての法理も自然と理解できるようになりました。今では定時の直前までどれだけ慌ただしくしていても、発正念がしっかりできると気持ちがスッキリし、疲れが取れるのがわかります。しばしば涙が流れることもあります。

 今思いかえすと、最初に発正念について迷いが生じましたが、それは自分が限られた常人の考え方の中で人心を動かしていたからです。

 私は昔からあれこれと考えを巡らせて時間を無駄にしがちでした。幼い頃から「自分は何で生まれてきたのだろうか」、「世の中に何故戦争がなくならないのか」、「そもそも何故社会はこのようなのだろうか」等と思い悩んでいました。そして色々な思想を学んで何かを打開したいと思い、大学の政治学科に入学し、様々な時代の政治・哲学・宗教に及ぶ思想に触れたりしながら、あれこれと考え及んでいました。

 そんななか、中国の政治について勉強したことがありました。参考文献として大紀元の記事をチェックしていたこともあります。また社説『悪魔が世界を統治している』を見つけて読みました。そこで私の考えが全く変わってしまいました。これは誇張ではなく、本当にドミノをひっくり返すかのようにして、自分の常人社会に対する今までの認識が覆されました。自分の中の迷いがそのまま正念へと切り替わっていくように思いました。やはり物事を考えるにも、知性に先立った心性が大事なのだと思います。

 また、それまでの自分にとって修煉は、「師父の法があり、自分がいて、常人社会の中でいかに自分が法を堅持するか」ということに限られた個人修煉にすぎませんでした。『轉法輪』や新経文、各地での説法を読み進めるにつれて、「真相を伝える中大法の威徳を示す」ことの重要性も認識出来ました。するとそれまでは定まっていなかった「法を正す時期の大法弟子」としての自覚もだんだんと定まり、自分の使命感も認識出来ました。まだまだ心性の関を乗り越えられず、苦戦する日々ですが、失敗してもなるべくすぐに持ち直して自分を修煉者として常に自覚し、己を律するよう努めています。

 2020年8月からは、真相メディアのプロジェクトに参加していますが、このすべてがそのまま自分の修煉の一部になっています。最初ナレーションを収録する際になによりも大事だったのは正念を持つことでした。正念が出ない時にナレーションを収録しても、そこに人を救うエネルギーがないのが自分でもわかります。もしそれで焦るとさらにますます正念が弱まって行きます。やはり、どんなに難しい局面でも着実に自分を修めて動じないことが肝要です。

 大法の正念に満ちた真理は護法の神々が守ってくださっているので、自分たちが大法に同化する限り、大法に圓容することを最優先していれば、チーム全体のエネルギーが自然と正しい方向に導かれ、威徳を確立できると悟りました。

 以上は大法を修煉してから1年も経たない浅い認識です。足りないところなど、同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/21/421169.html)
 
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