文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年4月27日】最近、口を修めることが重要だと感じています。口を開けば、正しくても間違っていても、様々な影響が生じて、マイナスの影響が同修の間に広まってしまうこともあります。
発せられた言葉は、同修のある面において形成された認識や観念によるものかもしれませんが、必ずしも全体的な修煉状態を完全に反映しているわけではありません。
仏教のミラレパが仏陀の修行をした時、彼の師父は彼に家を作らせ、山から石を運んでくるように何度も頼みました。そして、家が出来上がったら破壊させ、そしてまた作らせ、こうして繰り返し修行をさせました。しかし、 彼は自分の師父に対して少しの疑いも持ちませんでした。
相手を悲しませたり、不機嫌にさせたり、辛くなったり、情けなくなったりさせるすべての難は、家族のトラブルも含めて、自分の不足や業力によってもたらされたのかもしれません。しかし、私は自分を高い基準で自分を律することがなく、いつも物事の表象で善悪を判断してしまい、向上することができませんでした。実はすべての難は、借りを返したり、鍛えたり、人間の観念や考え方から抜け出すための関なのですが......私は頑迷で悟らなかったです。
長年にわたって同修(親戚)たちとの間に隔たりを感じて、なぜ今まで彼らの誤解が許せなかったのでしょうか? 彼らとの間に壁を作り、どうして私は謙虚に、忍耐強く、親切に、正直に交流することができなかったのでしょうか? たとえ人は不足があっても、それはよく修めていないだけで、どうして同修の人間の一面に慈悲の心で接することができないのですか? どうしてその小さな不足に注目して、同修を見下してしまうのですか? なぜ私は慈悲の心を持って、同修の不足を見ることができないのでしょうか?
私は大法弟子であり、法を正す時期の大法弟子です。師父は、私たちが歴史上かつて世におりた覚者たちよりも威徳の高い存在になるよう按排してくださいました。自分に求める基準は何であるべきでしょうか?
私は愚かな弟子であり、師に心配をかけてしまいました。師父のご慈悲とご加護を祈りつつ、自分に厳しく今後も頑張っていきたいと思います。師恩に感謝します。
【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】