文/遼寧省の大法弟子
【明慧日本2021年4月27日】明慧ネットに掲載されていた「『苦をもって楽とする』良好な修煉状態」という記事は、私に多くの示唆を与えてくれました。1995年に大法の修煉を始めた年配の大法弟子として、私は初めから大法の素晴らしさを感じていました。私は、大法をしっかり学んで師父について本当の家に帰ろうと決意し、拘置所で迫害を受けているときも、大法を修める決意や師や法を信じる気持ちが揺らぐことはありませんでした。
しかし、悟りが浅かったため、ここ数年は足の痛みやふくらはぎの小さな吹き出物、右胸の腫瘍など、体に偽りの病業が生じていました。私が一番苦しい時、師父の法が私の頭に思い浮かびました。「圓満となって佛果を得る 苦を嘗めるをもって楽とす 身を労するを苦と算せず 心を修するは最も過ぎ難し 関という関は全 すべて闖えるべし いたる処すべて是れ魔 百の苦一斉に降る 其の如何に活くかを看る 世上の苦に堪え得れば 世を出ずれば是れ佛陀」[1]
そして、その悪いものはどれも自分のものではないという声が聞こえてきました。このことから、悪いことは旧勢力が私にいわゆる試練を与え、心性を向上させるために利用したのだと理解しました。そして、師父の説法を思い出しました。「功を修るに路有りて、心を徑と為す 大法は無辺、苦を舟と做す」[2]これにより、苦しみに対する理解が深まりました。
それからは、どんなに身体が痛くても、それを深刻に受け止めることはなくなりました。肉体的な痛みは、私が人々を救い、真実を語ることを妨げる旧勢力の現れであり、私は真実を語ることを堅持し続け、旧勢力の按排を認めないことを決意しました。自分の考えが正された途端、足の痛みがなくなり、足の小さな吹き出物も治り、右胸の腫瘍も小さくなりました。
苦をもって楽とするということは、師父や法を信じている証拠であり、大法を堅実に信じられるかどうかが問われているのだとつくづく思いました。
僅かな悟りですが、適当でない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「法輪大法」
【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】