「4.25」陳情の真相(1996~1999年)(一)
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 【明慧日本2021年5月7日】(明慧記者・鄭岩)22年前に起きた法輪功学習者(以下、学習者)による1万人規模の陳情、通称「中南海事件」は、実は中国社会の道徳的基盤を守るための自発的な活動であった。 参加者は誰も結末を知らず、ただ身を捨てる覚悟で真理を守る信念を抱いていた。

 今日になって、多くの人がすでにその真実を知っているのだが、Z世代やミレニアル世代、中国共産党(以下、中共)の歴史に詳しい多くの中高年を含めて、この事件を理解していないだけでなく、誤解を植え付けられている人がまだたくさんいる。「4.25」から22年目を迎えた今日、中国と世界の道徳的な底辺に大きな影響を与えた、この歴史的な事件を再確認してみたいと思う。

 一、1996年から1999年まで

 1、1996年

 1999年の「4.25」を引き起こした原因は、1996年からすでに始まっていた。

 事は今日に至り、物分かりのいい人は分かっているが、中共の歴史は、人を懲らしめる歴史であり、中国国民の血と涙の歴史である。 特に1949年に北京で中共政権が発足した後、平均して10年ごとに一部の人たちを選び敵と見なし、そしてこの人たちに対して「名誉を汚し、経済的に破綻させ、身体を消滅させる」という政策を実施してきた。

 1996年6月17日、『光明日報』は法輪功を否定する社説を掲載した。 中共の歴史を知っている人であれば、この記事を見てすぐ分かるが、これは再び人を懲らしめるための新たな政治キャンペーンであり、「名誉を汚す」ことの始まりだと分かる。

 予想通り1996年7月24日、中共中央宣伝部が管轄する報道出版局は、全国の省・市の報道出版局に内部通達文書を出し、当時北京でベストセラーのトップ10に入っていた『轉法輪』や『中国法輪功』などの法輪功書籍の出版を禁止した。

 2、1997年

 続いて、1997年1月と7月に、公安部が法輪功に対していわゆる「違法な宗教活動」について2回の全国調査を行い、法輪功を「邪教」に指定するため罪名を羅列した。その後、全国の公安局は徹底した調査の結果、「特に問題は見つかっていない」と上層部に報告した。

 しかし、中共は政治運動を行う達人である。日増しに増加する法輪功の評判と良い口コミに直面し、中国人の10人に1人が法輪功を学んでいるという事実を前に、江沢民は嫉妬のあまり理性を失ったのである。 羅幹は江沢民の手を借りて法輪功団体への血まみれな迫害を、さらなる昇進と財を手に入れるための手段にした。それでは、彼らはどのようにして迫害を企み展開し実現させたのだろうか?

 3、1998年

 1998年7月、羅幹らは公安部を通じて、法律に違反して先に法輪功を「邪教」という罪を決定させ、その後、全国規模で罪の証拠を収集させるために、 公安部第一局は、「【1998】第555号、法輪功の調査に関する通知」との通達を公式に出している。通達の中で、公然と法輪功を(内部で密かに)邪教と称するのではなく、(学習者の)内部活動状況を把握し、違法な犯罪行為の証拠を見つけ出すために、各地方の公安国内安全保衛部門に緻密な調査を展開するよう命じた。

 その当時、公安や統一戦線部とスパイ部門の関係者に次々と法輪功を習わせ、学習者と一緒に『轉法輪』を学ばせていたが、実は、その人たちは学習者になりすまし、法輪功に潜入調査するためだったのである。 しかし、学習者の活動はすべて公開されており、かつ出入りが自由だったので、名簿もなければ会費もなかった。結果として、この潜入調査によって彼らは法輪功に対して深く理解し、かえって堅固な学習者となったのである。 この結果が羅幹らを驚愕させ、全国で法輪功が有罪であることを示す証拠は、一つも見つからなかった。

 しかし、羅幹による2回の「調査」は、一部の地域で深刻な影響を及ぼし、その時から、中共が引き起こした社会的な悪影響を変えるために、学習者はその都度表に出て努力していた。

 例1

 遼寧省朝陽市の公安局は、(1998年)第37号「法輪功の違法行為の禁止に関する通知」を各公安部門に通知し、一部の補導員(煉功の設置や法輪功学習者への奉仕活動をボランティアで行う人)には数回の罰金が科せられ、その累計額は4000元(約68,000円)以上に上ったという。根拠のない名目で課された罰金の中には、領収書が渡されず、略式の領収書もあった。このような状況を受けて、40人以上が公安部に陳情し、1000人以上の連名で、朝陽公安局を市民の合法的な権益を侵害したとして告訴した。

 例2

 1998年5月、国家体育総局は法輪功に対して総合的な調査を行った。10月20日、国家体育総局が長春とハルビンに派遣した調査チームの責任者の発表では、法輪功が病気を取り除き、健康維持、社会の安定と精神文明の構築に著しい効果があることを全面的に肯定した。 北京、広東、大連、武漢などの民間調査でも同様の結論が出ている。

 例3

 1998年5月下旬、北京テレビの番組「北京エクスプレス」は、何祚庥の法輪功に対する誹謗中傷を放送した。 北京テレビのインタビューで法輪功がいかに有害であるかを批判した。北京テレビは、同局の記者が北京の玉渊潭公園にある法輪功の煉功場で学習者にインタビューしている映像を流し、法輪功を「封建的で迷信だ」と言った。

 何祚庥は中共政法委員会書記の・羅幹の義理の弟で、アカデミアンと呼ばれているが、学術的な実績は全くなかった。何祚庥は量子力学を中共のいわゆる「三つの代表」に関連づけたことで、「科学者」と呼ばれるようになった。 何祚庥の法輪功への攻撃で使われた例は、法輪功とは何の関係もなく、すべて中共の一般的な陥れの戦術に基づいたものだった。

 番組放送後、北京と河北省の数百人の学習者は、中共中央委員会による「名誉を汚す」活動の拡散を阻止するために、中共中央の気功に対する「三ない政策」(打撃を加えない、論争しない、報道しない)を根拠に、テレビ局に手紙を書いたり、直接訪問したりした。 そして自身が煉功した後に受けた恩恵を伝え、北京テレビの番組内容が法輪功の真実とかけ離れ、視聴者や世論を大規模に誤認させたと指摘した。

 学習者による陳情が起きた後、真実を知った北京テレビの幹部は、「これは北京テレビの歴史の中で最も重大な過ちだ」と語った。 その直後の1998年6月2日、北京テレビは学習者が早朝の公園で平和的で穏やかな煉功様子や、様々な人が煉功している場面を取材し、お詫びとして報道した。

 例4

 1998年7月21日、公安部第一局が全国の公安部門に再度通達を出したことにより、新疆ウイグル、黒竜江省、河北省、福建省などの公安部門が煉功している人々を強制的に退散させたり、違法に家宅捜索をしたり、個人宅を押し入ったり、個人の私有財産を没収したりするなどの違法・無秩序な行為が再び問題となった。

 中共内部の情報筋によると、羅幹は1997年と1998年の2回にわたり、法輪功を邪教と定め迫害しようとしたという。「法輪功が何か悪いことをしたからではなく、羅幹は当時、中央政法委員会の書記であり、官職が尽きており、さらに出世するには大きなことを引き起こさなければならなかった。 羅幹は、政法委員会の書記である自分が政治的な焦点となるように、大きな事件を引き起こしたかったのだ」と情報提供者は語った。

 情報が集まらず焦っていた。公安部の気功担当者は皆、気功に精通しており、自らも気功を練っている人が多かった。1996年、羅幹は公安部の再編に着手し、気功を担当していた人や気功を理解している人をすべて異動させ、法輪功を弾圧するためにレールを引いたのである。

 例5

 1998年下半期、喬石氏が率いる全国人民代表大会の一部の退職幹部は、公安当局による法輪功学習者への違法な扱いを反映した国民からの大量の手紙に基づいて、法輪功に関する詳細な調査・研究を行い、「法輪功は国と人民にとって百利あって一害なし」という結論を出した。 年末には江沢民が率いる政治局に調査報告書を提出した。

 喬石氏の旧名は蒋志彤と言い、本籍は浙江省定海。上海で生まれ、中共の長老である。戦時中から上海の中共の地下組織のメンバーとして働き、内戦中は同済大学の中共地下組織の党総支部の書記を務め、上海地下組織の学校委員会の交通主任なども務めた。1949年以降は、まず技術者として働き、1963年からは政治の仕事に就き、中共の連絡弁公室で19年間働き、副部長(副大臣)になるまで勤めた。1983年には中央弁公室主任、中央組織部部長となり、1985年には政治局入りし、政治法制中央委員会書記として、政治法制、治安、情報、司法を担当した。1986年には副総理となり、1993年には全国人民代表大会の委員長となった。当時の全国人民代表大会の委員長は、政治・法律関係を担当しなければならなかった。1998年に引退した。以上の経歴から、喬石氏は中共の上層部の渉外から、中枢、組織、政治法律、行政、立法の各部門の重要な職位をすべて務めており、中共の幹部の中では極めて少数と言える。特に、1985年から1998年までの13年間、喬石は国の政治・法律制度のトップに君臨していた。

 そして、喬石氏などの老幹部が「法輪功は国と人民にとって百利あって一害なし」と結論づけたことや、4.25事件における当時の朱鎔基首相の明解な和解は、江沢民を非常に不愉快にさせ、法輪功創始者の道徳的な魅力の大きさが、江沢民をさらに嫉妬させた。

 4、迫害エスカレートの第一歩となった1999年の天津事件

 「北京テレビ事件」以降、北京ではようやく「報道しない」という雰囲気が定着し、当時の中共中央委員会の気功に対する「三ない」方針が実質的に実行されるようになった。 このような状況に直面した羅幹と義弟の何祚庥は諦めなかった。彼らが目をつけたのは、北京近郊の天津市だった。

 1999年4月11日、いわゆる科学者・何祚庥が、天津教育研究所が運営する雑誌『青年科学技術博覧』に、「私は青年が気功を練るのを賛成しない」という記事を掲載した。この記事では、法輪功を名指しで非難する虚偽の事例を引用し、「名誉を汚す」という政治戦略を継続した。

 先に述べたように、何祚庥は中共の政法委員会書記である羅幹の義弟であり、学術者と呼ばれているが、学術的な実績はなく、政治に依存した文人である。それ以前の1998年5月、何は北京のテレビ番組で、法輪功とは関係のない例を挙げて法輪功を誹謗中傷した。 その後、北京テレビは何祚庥に利用されたことが分かり、何祚庥に関する資料を一切使わなくなった。

 何祚庥の文章が天津で掲載された後、天津の一部の学習者は、関係者に真実を明らかにする必要があると思い、雑誌の編集部との交渉を通して文章の悪影響を削除してもらうことを期待した。そのため、4月18日から24日まで、一部の学習者は天津教育学院などの関連機関に出向き、真実を伝えた。

 読者の皆さんに注目してほしいのは、中共が国民を迫害する政治的キャンペーンのすべてにおいて、政治的に関連した文人による公式メディアにおける批判や中傷により、常に「名誉を汚す」の合図を発信し、恐怖の雰囲気を醸し出すことから始まると気づかされる。中共の独裁国家である中国では、学習者を中共の内部の「名誉を汚す」対象としていることで、陳情して実情を伝えることが唯一の手段である。

 天津の話に戻ろう。良好な秩序を保つために、天津教育学院へ真実を伝えに行った学習者は、意識的に静かに秩序を保っていた。 彼らは音を立てず、動き回らず、大学に通じる道を学生が通れるようにし、校門の外にもボランティアで秩序を維持する学習者がいた。

 中国の『憲法』第41条では、「国民は、国家機関または国家公務員を批判し、提案する権利を有し、または、国家機構と国家公務員の法律違反または職務怠慢について、関連する国家機関に申し立て、告発あるいは摘発する権利を有し、陥れるために事実を捏造または歪曲してはならず、虚偽の告発をしてはならない」と規定している。

 しかし、1999年4月23日と24日、中共政法委員会書記の羅幹は、天津市公安局に命じて300人以上の機動隊員を投入し、学習者を殴り、45人を逮捕し、一部の法輪功学習者はその場で負傷して出血した。

 学習者が釈放を求めたところ、天津市政府は、公安部が事件に関与しており、北京の許可がなければ逮捕された学習者の釈放ができないと返答した。天津公安局は学習者に、「北京に行きなさい、北京に行けば問題は解決できる 」と提案した。

 迫害のエスカレートによって、多くの学習者の関心を呼び起こし、事情を聞いた各地の学習者は、相次いで北京へ陳情に訪れた。北京での陳情は国務院陳情室への陳情を意味すると学習者たちは知った。

 「陳情」と言えば、これまで中共の一方的な宣伝を聞くだけだった。多くの若者や長い間中共の宣伝に浸ってきた一部の中高年の人は、先に行動する方が主導権を握ると考えている。たとえ、自分の身の周りにる学習者が善良な人だと分かっていても、法輪功と聞くと「(中南海)包囲」を思い浮かべ戸惑っていた。

 実際、どんな人であっても、心を開いてみると当時の中国では、法輪功を真剣に修煉する人がすでに様々な業界に及び、平均して10人に1人が法輪功の書籍を読み、法輪功の煉功をしていたことが分かっている。 彼らの修煉を始めた目的は何であろうと、自ら「真・善・忍」を守り心身の次元を高め、新たな人生を与えてくれた法輪功とその創始者への感謝の気持ちでいっぱいだった。 

 そのため、彼らは日々の生活や仕事の中で、努力して「真・善・忍」の基準で善良な人になり、多くの家庭内のトラブルと対人のトラブルが解消され、社会に平和と希望をもたらした。「陳情」と言う単語は彼らにとって言えば、夢でさえ見たこともなく、自身が参加するも考えなかった。それでも「(中南海)包囲」と言うのだろうか? 歴史を振り返ると、天津の警察による逮捕と殴打事件が、1999年「4.25」の陳情を誘発した直接の原因のように見える。しかし、中共の上層部の個人が、すでに1996年から手中の権力を利用して大規模に法輪功への弾圧を始めており、絶えず問題を起こしていたのだ。1999年4月に行われた学習者の「4.25陳情」は、迫害がさらにエスカレートすることを阻止するための善意の取り組みにすぎない。

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/24/423733.html)
 
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