天津陳情と「4.25」陳情の真相(二)
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 【明慧日本2021年4月30日】(前文に続く)

 天津市政府が学習者を北京へ行かせた

 事実を反映しても結果がなく、さらに学習者たちも連行されているので、上層部門に報告しなければならないと思い、皆は天津市政府に行った。市政府に着いた時、そこにはすでに私たちと同じように多くの学習者が集まっていた。警備員は私たちに「何をしに来た?」と聞いた。私たちは、「教育学院から来ました。公安局が多くの学習者を連行しました。これは、法律の執行者が法律を犯していることであり、今この状況を市政府に報告したいのです」と答えた。そして、市政府の警備員はトランシーバーで中へ知らせた。

 20~30分ほど経ち、決定権があるらしい官員が中から出てきた。その人は、「教育学院のことについては、公安局がすでに介入していて、市政府は解決できない」と話した。

 そこで、私が「そうなると、どこへ報告すればいいでしょうか?」というと、 彼は「北京に行って請願すればいい」。私たちは「とても大きな北京で、どの部署が私たちのことを構ってくれるのですか?」

 その官員は「国務院陳情弁公室に行けばいい」

 私たちは「国務院陳情弁公室はどこにありますか?」

 官員は「府右街にある」と教えてくれた。

 私たちは「府右街はどこですか? 私たちは北京には行ったことがありません」

 官員は「バスを降りて、尋ねたら分かる」と言った後、中に入った。学習者を救出するために、行かなければならないと皆は思った。

 私たち数人は話し合った結果、翌朝から北京に行くことにした。

 4.25」北京陳情

 天津市政府を離れた後、友人と一緒に武清に行った。武清は北京に近いので、そこで1泊して、翌朝の4時頃に車で北京へ向かった。6時頃に北京に着き、陳情部門は朝の8時にならないと開かないと思い、道端で一休みして朝食を済ませた。すると、次々と人が同じ方向に進んだのが見えたので、車で行ってみると、陳情弁公室にはすでに大勢の学習者が集まっていた。時間はちょうど6時だった。私たちは車から降りた。

 私たちは府右街から進んでみると、道の両側には学習者がいっぱい並んでいた。 誰かに「法輪功学習者ですか? どこから来たのですか?」と聞かれた。私たちは「天津から来ました」と答えた。彼らは「天津で人が逮捕されたと聞いて、みんながここに来ました」と言った。話によると、北京や唐山から来た学習者もいれば、廊坊から来た学習者もいた。基本的には皆が北京周辺の出身で、お互いに知らず、順番に列を作っていた。私は「場所は指定されているのですか」と聞くと、「いいえ、後ろから並んでいいです」と言われた。

 私たちが立っていた場所は、陳情部門の入口から遠く離れていて、中南海がどこにあるかも分からないので、順番に並んだ。

 6時半から7時近くになると、大勢の警官がやってきた。「人が多いので、あちら側に立ってください」と注意した。

 7時頃、教育学院と同じような私服警官が現れ、道路の出入り口にバリアを設置した。

 後になって知ったが、列車や他の交通機関を利用した河北省の学習者は、駅で止められていた。また、特急列車に乗ってきた山東省の学習者も駅で止められ、北京に入ることができなかった。その後、東北からの学習者は、飛行機から降りた途端に空港で止められたという。要するに、どんな方法でもすでに北京に入ることができなくなっていた。

 おそらく10時頃、前の学習者から伝達してきた情報によると、朱鎔基総理が2人のスタッフと一緒に出てきて、中南海の入り口で状況を尋ね、「何人かの代表者を推薦して、中へ入って状況を報告するように」とのことだったという。

 私は、前の学習者から聞いた話を後にいる学習者に伝え、このようにしてみんなに伝えていった。しばらくして、再び前から、すでに数人の代表者が入って状況を報告していると伝えられた。

 朱鎔基総理が天津に「人を解放する」と指示

 午後2~3時頃、「天津から来た人はいませんか?」と聞かれたので、 私たちは「天津から来ました」と言った。そして、「天津の学習者たちが解放されたかどうか、電話で聞いてみて下さい。朱鎔基総理は、すでに天津学習者の解放を指示しました」とすぐに天津の学習者に電話をかけた。当時、天津の学習者たちも緊迫した雰囲気だったため、電話が盗聴されている中で、多くの学習者は電話に出なかった。数人にかけて、ようやく電話に出る学習者がいたので、確認するように頼んだ。

 約30分後、天津から電話があり、「連行された数人の知り合いは解放されたので、全員が解放されたのではないか」とのことだった。当時、多くの学習者が連行され、お互いに知らないため、全員が解放されたかどうかは分からないが、おそらく皆が解放されたと推測した。しかし、殴られて、胸や背中に多くの血跡があった若者もいるので、この状況を報告した後、「負傷者の名前や怪我の状況などをまとめて報告するように」と言われた。法輪功は組織がないため、 それを確認し終わったときには、午後4時か5時くらいになっていた。

 学習者は現場をきれいにした後、静かに解散

 夜の8時、9時頃、前の学習者から、「報告すべき事がほぼ終わったので、解散の準備をしてください」と伝えられた。その時、学習者たちはしゃがんで、自分の周りの紙やタバコの吸殻などを拾っていた。一部の学習者は自分たちの周りをきれいにした後、警官が立っていた場所に行って、彼らが投げ捨てたタバコの吸殻を拾った。このように、後方の学習者も同様に、すべてのゴミをビニール袋に入れた。

 これまでの経験では、人が滞在する場所には必ず痕跡が残るが、私たちが帰るとき、両側の道路は本当にきれいだった。

 22年経った今、当時の光景を振り返ってみれば、陳情活動に参加した学習者は非常に穏やかで、自ら律していたことがとても印象的であった。

 (完)

 
(中国語://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/23/423718.html)
 
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