【明慧日本2021年4月30日】22年前の1999年4月25日、約1万人の法輪功学習者(以下、学習者)が、北京の国務院陳情弁公室に行き平和的に陳情を行い、「天津事件」について公正に解決できるように求め、当局に対して「天津で連行された学習者を解放すること、自由に法輪功を学ぶ環境を国民に与えること、法輪功書籍の出版を許可すること」を要求した。
当時、学習者が平和的に「4.25」陳情をしたのは、1999年4月11日、中国科学院の学者である何祚庥が、「北京テレビ事件」の結論を無視して天津に行き、中国天津教育研究所の雑誌『青少年科技博覧』に、「青少年の気功学習に賛同しない」という記事を掲載し、再び法輪功を中傷する嘘を社会に広めて、引き続き弾圧計画を実施したからである。
記事では、1998年に北京テレビで虚偽であることが証明された例が再び引用された。迫害が発生しないように、天津市の学習者は4月18日から24日にかけて、天津教育学院などの関連機関に行き法輪功について説明した。私も一緒に行った。4月23日と24日、天津市公安局は300人以上の機動警官を出動させ、事実を説明しに行った学習者を殴打し追い散らし、45人を連行した。一部の学習者は出血して負傷した。 私自身は天津教育学院での事件の全過程を経験した。
天津陳情のいきさつ
4月19日、私は他の4人の学習者と一緒に天津教育学院に行き、「何祚庥氏が発表した記事は事実ではないこと、法輪功を学ぶことは心身ともに健康を得ることであり、私たちは皆、自ら実際に体験していること」を伝えようと考えた。
その日の9時頃、教育学院の受付担当者に案内されて、会議室で待つように言われた。10分ほど待ってから、天津教育学院の関係者2、3人が続々と部屋に入り、私たちの向かい側に座った。彼らが席に着いた後、学習者の1人が率先して訪ねた理由を説明した。もう2人の学習者は、法輪功を学んで心身ともに恩恵を受けた体験を語り、私は、娘が法輪功を学んだきっかけと学んだ後の心身の変化について話した。
天津教育学院の関係者の1人が話を聞いて、興味を持ち、「子供たちはいつ煉功するのか、勉強に影響はないのか」と質問した。なぜなら、何祚庥は記事の中で、青少年が法輪功を学ぶのは適切ではないという誤った例を使って読者を誤解させているからだ。私はその責任者に、「実は、娘が法輪功を修煉した後、知恵が開き成績も良くなり、クラスでトップになりました」と説明した。
また、以下のように紹介した。「普段、娘は学校から帰ってきて、まず宿題をして、宿題が終わってから食事をして、食事が終わったら私と一緒に法輪功の主著である『轉法輪』を勉強します。週末や冬休み、夏休みには、娘を連れて公園で煉功します」
その関係者は、娘の学校、クラス、名前などを詳しく記録し、「今度、娘を連れてきてくれないか、いくつか質問したいことがある」と熱心に聞いた。私は「いいですよ、昼休みの時に連れてきますから、聞いてみてください」と答えた。
一緒に行った2人の学習者にも、同じく法輪功を学んでいる子供がいて、それぞれが子供の心身の変化について話した。
私たちの話を聞いて、数人の関係者は恥ずかしそうな態度を見せた。
私たちは、「報道機関として、公正な報道をすべきであり、あなた達が掲載している報道は事実と異なるので、訂正して頂けないでしょうか?」と聞き、その中の1人は、「記事を訂正するには、作者の許可を得なければならない」と言った。
私は、「今回の影響は非常に良くないので、あなた達のメディアのイメージにも影響を与えるので、公の場で謝罪の声明を出して頂けますか?」
彼らは、「何か要望があれば記録します。1人や2人で判断するようなことではないので、会議で検討した上で、返答する」と言った。
私たちは「まずは公開でお詫びをすること、二つ目は作者に記事を訂正させること、それから、法輪功に対する肯定的な記事を掲載すること」の三つのことを要求した。
その時に感じたのは、彼らがとても親切で誠意を持って、問題を解決しようとしていることであった。私たち5人は出てきた後、さらに多くの学習者が陳情に来た。
その後、ますます人数が増え、運動場は満杯になったので、通行人がスムーズに通れるように学習者は通路を譲った。一部の学習者はビニール袋を買ってきて、ゴミを入れ、夜、皆が帰った後の運動場はとてもきれいだった。 教育学院前の道路はとても狭く、ラッシュ時には交通警察に手伝って交通整理をしている学習者もいた。
その後、教育学院の関係者は人数が多すぎて対応できなかったが、報告された基本的な状況を理解し、帰って返事を待つようにと言った。しかし、次々とやってきた学習者たちは教育学院の業務時間内であったため、学習者たちは現場で返事を待っていた。
怪しい機動警察隊が現れた
教育学院の関係者が娘にインタビューしたいと言っていたので、火曜日の午後は娘の授業がないので、私は娘を教育学院に連れて行った。会議室に向かう途中、教育学院の建物の全体が今までと違っていることに気づいた。
建物内には、教育学院の先生でもなく、学習者でもないような人たちがたくさんいることに気づいた。その人たちは25〜40歳くらいで、全員の身長が175センチを超えていた。
娘と一緒に会議室のドアの前に着いた時、数人がそこに立っていた。ドアをノックすると、中の一人が「何をしているのか?」と聞き、 私は「約束した通りに〇〇を訪ねに来ました」と答えた。彼は「教育学院の責任者たちはみんな忙しい、中で会議をしている。特に重要な事であれば、電話で連絡するか、別の日にするように」と言って、私たちを2階から追い出した。
彼と話をしている時に、彼らは帽子を被っていないが、肩章をつけた機動警察隊の制服のような青い服を着ており、他の2人は派出所の警官のような私服を着ていることに気づいた。
私は何も言わずに出てきた。出た後、娘と私は他の学習者と一緒に運動場に座り、しばらく座って周りを見回していると、特殊部隊の制服を着た人たちも運動場に現れ、立ったり歩いたりしていた。入り口の道路にも制服を着た人たちがおり、道路の両側にはパトカーを停めており、中には私服の警官と同じ服を着た人たちが座って話していた。
木曜日になると、ある学習者から、「買いものに行ったとき、教育学院の入り口の曲がり角で、私服警官と話していた男性学習者が、彼らに連れて行かれた」と聞いた。
4月23日の夜に帰宅した時、夫は「下に誰もいなかったか?」と聞き、娘も特に緊張した表情で私を見ていた。夫の話によると、先ほど数人の警官が来て、私についていろいろと聞き、娘にもいくつかの質問をしたという。彼らは3〜4時間待っていて、数分前に立ち去ったばかりだった。
4月24日の朝、私は再び教育学院に行こうとして階段を下りたところで、特殊部隊の警官と派出所の警官が、私とすれ違い、私の家のドアをノックしていた。
教育学院に着くと、そこには状況の進展を知りたがっている学習者が多くいた。たまたま隣に座っていたのが、以前一緒に行った5人の中の1人で、彼女は「トイレに行って来る」と言って出て行き、結局ずっと戻ってこなかった。彼女は2人の警官に連行されたと目撃者から聞いた。
夕方になると、公安はみんなを追い払った。あるおばあさんが4人の公安に担がれ、腕と足を引っ張られ、地面を引きずられた時に背中から血が出ていた。 力の強い男性学習者は、公安車に押し込まれた。連行の後、公安人員は教育学院の門を閉め、車に乗り、そこを立ち去った。
(続く)