「4.25」陳情の真相(1996~1999年)(二)
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 【明慧日本2021年5月8日】(前文に続く)

 二、「4.25事件」の経緯

 1999年4月25日、自発的に北京に駆けつけて陳情した法輪功学習者はたくさんいたが、出発点は似ていて、経歴も似ていて、見たことも似ていた。この22年間、明慧ネットには多くの証言記事や回顧録が掲載されている。 法輪功は修煉であり、組織もなければ名簿もない。ここで読者のためにいくつかの証言の記事を抜粋することにする。

 1、証言その一

 1950年代後半にソ連へ留学し、科学7分野で活躍する学習者は次のように証言した。「1995年10月に法輪大法の修煉を始めました。この偉大なる修煉法は、辛い人生を送ってきた私への励ましと感じ、人類にはこの大法以上の道を見つけることはできないと思っています」

 「何祚庥が天津で法輪功への新たな攻撃を開始したことについては、学習者の仲間からの電話で知りました。 彼女は、何祚庥が天津で雑誌を通じて法輪功を誹謗中傷したことなどを話してくれました。天津の学習者が事情を説明しに行くと、大勢の武装した警察官が現われ、学習者を殴って逮捕しました。 その学習者は、明日、国務院陳情所に行って事情を説明に行きますと教えてくれました。翌日(1999年4月25日)の早朝、私は自転車で陳情所に向かいました。午前9時に西四(せいし)に到着すると、通りには自転車が置かれていたので、そこに自転車を置きました」

 「陳情所のある府右街に着くと、すでに大勢の法輪功学習者が集まっており、武装した警察に誘導されて府右街の道路の両側に立っていました。 私は西側の隊列に加わり、中南海の陳情所の門からわずか数十メートルのところだったのです。武装した警察の指揮車が行き来するので、少し緊張感がありました。 しばらくすると、武装警察は、道路の東側に立つ学習者と、中南海の国務院の赤い壁の外に立っている学習者を、道路の西側に立つように命じました。この隊列の再編成は10分以内に完了しました。通りの西側は目に見えて混雑しており、縦長の道路の方向に1列10人ずつ並び、振り向くこともできないほどの密集した列ができていました。府右街の道路に沿って学習者の列は1キロ以上にも及び、府右街だけでも1万人はいたはずです。 北と東西に向かう学習者の列は、西四街から北海公園まで並び、数キロメートルありました。 私の左隣には天津から来た法輪功学習者が十数人いて、右隣にはウルムチからきた法輪功学習者が数人いました。 みんなとても穏やかで、静かに立っていました。 これまでの状況は人から人へと伝わってきた話なので、伝われば伝わるほど、言葉数が少なくなっていました」と証言した。

 2、証言その二

 もう一人の学習者は、その年、中国科学院で博士号取得のために勉強していた。 証言では、「私は4月24日の夜、実験を終わらせるために残業していたので、(煉功へ)学法(注:学法とは法輪功の書籍を学ぶこと)に行ったのは遅かったのです。私は学習者の家に着いたとき、学法が終わっていて、みんなが帰ろうとしていました。世話人の李さんは、私が遅れてきたのを見て、歩きながら簡単に、何祚庥が天津で出版社『青年科学技術博覧会』に、法輪功の修煉が精神病を引き起こすと誹謗中傷する文章を発表し、法輪功が党と国を壊滅するとほのめかしたことを教えてくれました」

 「この記事は、近年登場した10社以上の新聞社による法輪功に関する歪んだ報道と同じであり、1998年7月21日に公安部第一局が発表した『法輪功の調査に関する通知』の意図と同じです」

 「この通達(「法輪功の調査に関する通知」)により、新疆と遼寧の公安機関は、学習者の通常の集団煉功が違法な集会と見なされ、強制的に解散させられ、私有財産を違法に押収し、さらには違法に殴打、罰金、拘禁、投獄するようになりました」

 「4月25日の朝、私は7時半頃、府右街の北口に到着しました。府右街の付近道路の両側には多くの学習者がいて、立っている人、座っている人、本を手にして読んでいる人、歩行者と話している人はおらず、人が多かったのですが、交通の渋滞や騒音もありませんでした。自転車で通勤している道行く人々は、いつものように西安門街を通り過ぎて行き、街の南部に向かいました。街には人通りも多く、公衆トイレの横にはトイレを待つ人の列が10メートル以上もありましたが、秩序があって整然としていました。私は初めて来たので、方向が全く分かりませんでした。知っている同修に出会えることを願い、一周回りました。そして私は、府右街西側に沿って南に向かって歩きました。 道の両側に整然と並んでいた学習者たちがいました。(道路側の)学習者は立っていて、内側の学習者は座っていて、両手で『轉法輪』を持って読んでいました。彼らが着ていた衣服からを見て、素朴で優しい人たちで農村から来ていたようでした。 途中で知っている学習者には会いませんでしたが、どこでもトランシーバーを持って状況を報告する若者たちを見かけ、一般人と同じような服装で、おそらく私服警官だったと思います」

 3、証言その三

 他にも多くの学習者がいたが、この迫害はこの記事を読んでいる今も続いているため、現時点で名前を明かすことはできない。ある女性の学習者は、記事の中でこう振り返った。

 「煉功が終わった後、北京や各地からの学習者は四方八方から集まってきたので、私たちも人の波に混じって府右街へ向かいました。そこの交差点や道路脇には、警官たちがすでに待っていました。府右街の入り口まで来た時、警官に止められ、彼らの指示なのか、それとも同修の案内なのかは覚えていませんが、私たちは狭い道を通って中南海西門付近までに着き、中南海西門から20~30メートルの府右街西側の歩道で止まりました」

 「朝になったので、ますます多くの学習者が集まってきました。お互いに知らない人ばかりでしたが、法輪功を修煉して道徳レベルを向上させたため、秩序が保たれ、みんなが自己を律し非常に静かでした。自ずと3列に並び、後ろの2列は大体座っているか、あるいは『轉法輪』を読み、座禅をしていました。前の列に立っているのは主に若い学習者でした。点字ブロックと歩道の半分は、歩行者が通行できるように譲っていました」

 「朝の通勤時間帯には、バスや自転車が通常通り道路を走っていました。私たちの要求は明確で、『天津で連行された学習者を解放すること、自由に法輪功を学ぶ環境を国民に与えること、法輪功書籍の出版を許可すること』でした」

 「その後、警察が道を規制したのか、府右街に出入りする車や歩行者が大幅に減り、多くの警官が巡回しているのが見えました。巨大な装甲車がゆっくりと府右街に入り、内部に設置されたカメラで撮影していました。しかし、誰も怯えることなく、堂々と向き合っていました。後で聞いた話によると、その映像は、各部門が自分の部門内の人がいるかどうかを確認するためだったそうです」

 「学習者は皆、学習者の代表と朱鎔基首相との話し合いの結果を静かに一日中待っていました。私たちのいる場所は中南海西門の真向かいではなかったので、朱鎔基首相が出てくるところや学習者代表が入ったところは見えませんが、いくつかの光景を目にして、とても感動して記憶に残りました」

 「場面1:細い道の交差点で、幼い子供を連れた中年女性がいました。中年男性(おそらく私服警官)が『誰に言われて来たのか』と尋ねた時、彼女は『自分の心です』と答えました。その答えを聞いて、私はすぐに涙が溢れました。彼女の短い答えは、私たち学習者全員の心の声を代弁してくれました」

 「場面2:1万人もの学習者がいるとは言え、秩序は非常に良いものでした。頻繁に交替した大勢の男女の警官が、リラックスした様子で街を歩き、食べ物の袋やミネラルウォーターのボトル、タバコの吸殻などを地面に投げていました。近くにいた学習者がそれを拾ってゴミ箱に入れ、道路も歩道もきれいでした」

 「場面3:午後になると、北京近郊の各県の役人が命令を受けて現場に到着しました。延慶県知事を名乗る男性が女性農婦に、『お前は自分の土地を放ったらかして、ここに来て何をするのか』と聞いた時、その女性は、『私たちは法輪功を修煉して、健康になって農作物も順調に育てているので、これを中央の指導者に伝えたいのです』と答えました。私はこのシンプルな言葉に深く感動しました」

 「夜9時頃、問題が円満解決されたことを知って、皆はゴミを片付けて静かに帰りました。しかし、他県から来た学習者のほとんどは、地元の政府が用意した車に乗せられ、北京への陳情に参加した人として記録されました。その後、勤務先の責任者に呼ばれた時に知ったのですが、秘密公文書によると、『4.25』の参加者は『1万人』ではなく、『数万人』だったそうです。その正確な数は、いつか公開されるでしょう」

 4、証言その四

 現時点では名前を公開できない学習者は、明慧ネットに投稿した文章に次のように書いている。

 「1999年4月25日午前8時15分頃、当時の朱鎔基首相一行は、国務院正門(西門)から出てきて、道路を渡って陳情する学習者の前に来ました。その時、学習者たちは拍手をしました。朱首相は『何をしに来たのですか? 誰に言われて来たのですか』と聞きました。学習者は『法輪功の問題を報告するために来ました。組織者はいません』と答えました。朱首相は『なぜ陳情書を書かなかったのですか? どうしてこんなにたくさんの人が集まっているのですか』と尋ねました。学習者たちは『手紙は山ほど書きましたが、返事はありません』と答えました。朱首相は『あなたたちの問題についてすでに回答を出しました』と言いました。学習者たちは『受け取っていません』と答えました。その時、学習者に対する首相の回答が、意図的に誰かによって阻まれていたことに気付きました」

 「首相は数人の代表者を推薦して中に入らせ、状況を説明するよう指示しました。 正午頃、法輪大法研究会の学習者2人と北京の学習者3人が代表として国務院に入り、政府関係者と面会し、三つの要求を申し出ました」

 (1)天津で連行された学習者を解放すること。

 (2)法輪功書籍の出版を許可すること。

 (3)自由に法輪功を学ぶ環境を国民に与えること。

 「国務院の陳情部門の責任者、北京の責任者、天津の責任者などの政府関係者が交代で会談に参加しました。朱鎔基首相は国民の煉功を妨害しないという国の方針を表明し、すぐに天津市公安局に学習者の解放を指示しました。夕方、天津市は中央政府の指示に従い、拘束されていた学習者全員を解放しました。その直後に、学習者は静かに中南海を離れ、全体的に穏やかで平和で秩序のあるものでした」

  「1999年7月に迫害が始まった時、中共のメディアは『法輪功学習者が中南海を包囲した』、『中南海を攻撃した』と報道していましたが、これは弾圧のために作られた虚言です」

 三、「4.25」への評価

 中共内部での弾圧計画を阻止することはできなかったが、「4.25」事件は当時その場にいた学習者を含めて多くの人々に、法輪功修煉者の平和的で理性的な内面と、良知を守る勇気を深く感じさせた。

 真相が広まるにつれ、「4.25」が中国の歴史における道徳的記念碑のようであると理解する人がますます増えてきた。

 世界で最も人口の多い中国で、世界的に道徳レベルが低下している環境下で、これほど多くの人々が、躊躇もせず自分のすべてを捨て、真理を守るために同じ場所に集まった。あの瞬間はまさに天地を揺るがすほど人々を感動させ、歴史に永遠に残る日となるだろう。

 (完)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/24/423733.html)
 
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