文/遼寧省の大法弟子
【明慧日本2021年5月13日】数年前のある日、私はへその周りが痒くなって、我慢できず手で搔きました。搔くと幾つかの小さな水疱ができ、水疱が破れると、血と体液が出て痒みがなくなりました。しかし、また痒くなってくると、かさぶたを再びかき破ったりの繰り返しでした。この様な状態が、良い時も悪い時もありながら1年以上続きました。私はとても思い煩い、どうしてこうなるのか分かりませんでした。私は娘を助けるために、子守りをしていますが、まだ子供が小さく、抱く必要があるので、子供を抱くと皮膚の破れたところに当たったりして、とても痛かったのです。しかし、私は娘には内緒にしていました。それを言うと娘が嫌がるのを心配したからです。
一、内に向けて探し、嫉妬心を見つける
ある日、同修の交流文章を読んだとき、その同修は「おなかの調子が悪いのは、嫉妬心だと悟った」と書いていたのです。私は、「私もお腹に問題があり、これも嫉妬なのか?」と思いました。しかし表面上の自分は、誰にも嫉妬などしていないはず……。色々思い巡らしていると、私は次のことを思い出しました。「ある時は婿の両親が気に入らず、彼らは農村で生活しながら、農業はせず、1年間の出稼ぎもろくにせず、自分で自分を養えず、経済面では子供達の助けを受けており、その上、子守りもしないのです。もし彼らが来て子守りをしてくれたら、私は出かけて仕事ができる上、子供達の経済的負担を減らせるのです。しかし自分は、子守りをしながら、買い物、食事作り、洗濯、片付けをしている」と思いました。そのころの私はとても疲れており、心のバランスが取れなくなっていました。私は、学法が少ないと正念はないと思いました。
私は心を静めて学法し、内に向けて探しました。師父は「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」[1]と言われました。これは正に私のことを言っているのではないでしょうか? これは正に嫉妬心ではありませんか? 長年修めていたのですが、やっと自分に嫉妬心があるのを見つけて、とても恥ずかしいと思いました。私が正しく探した時、へその部位も痒くなくなり、知らず知らずのうちに良くなり、二度と現れませんでした。
二、内に向けて探すことの素晴らしさ
今年の正月のある日、ご飯を食べようと、食事を全部食卓の上に乗せました。その時、2歳半になる男の子の孫が、食卓の上でくるみ割りのトングで遊んでおり、皿にあたった音がしました。私は機嫌が悪くなり、直ぐにトングを取り上げました。そして孫に、「こんなことをしたら皿が割れるじゃないの」ときつく言いました。そして翌日、私が皿を洗っていた時、皿の裏側の部分にひび割れがあるのを見つけました。ひび割れのところに少し汁が滲んだ痕跡があり、やはり私の第一念で、その日孫が皿をたたいていたから、きっと孫がやったに違いないと思いました。私は娘に皿を見せながら次のように言いました。「あんたの子供が皿にひびを入れたよ」
2日経ち、朝ご飯を食べていたら、口の中で犬歯の一部分が欠けたのが分かりました。舌の付け根のあたりに舌があたるので痛くなりました。物を食べると更に痛くなって飲み込むことさえ少し困るようになりました。気づいた娘が「どうしたの?」と聞いたので、私は「これは業を消しているのだから、良い事だよ」と答えました。しかし心の中で、「何か間違っているのではないか」と感じていましたが、そのときは深く探すことはしませんでした。
夜になって、孫が寝た後、娘が果物を持って来ました。私は果物を食べながら「どうして娘がわざわざ果物を持ってきたのか? 何かあったのか? それとも、私が言ってはいけない何かを話したのか?」と考えました。突然思い出したのは、先日、皿に魚を置いて鍋で蒸した時、水を少なく入れたのです。そうすれば魚の臭みが消えるからです。皿はたぶんその時にひびが入ったと思われます。そのときは皿に魚があったので、ひび割れに気づかなかったのです。私が皿を洗う時に、やっとひび割れを見つけ、これは私が見たひび割れに汁が滲んだ痕跡があるのと合致しました。ここまで思うと私は「はっ」とし、なぜ歯が痛いかが分かるようになりました。それは私があまりにも独りよがりで、その上、幼い子に罪をなすりつけたのです。
責任が生じると、第一念は自分が逃れることで、これは私が幼い時に形成された習慣なのです。人に言われたくなく、それで何でも尽力してよく行い、過ちを犯したくなく、無意識のうちに犯した過ちは自分のせいにしたくなかったのです。師父は、私に責任が生じると、外へ向けて押す心と、独りよがりである人心を見せて下さったのです。「師父、私は間違えました! 私は本当に間違えていました!」、師父の巧妙な按排に感謝を申し上げます。私が正しく探した時、舌はそんなに痛くなくなり、翌日は痛みが全く残っておらず、完全によくなりました。私は思わず微笑みました。大法を修めることはあまりにも素晴らしいのです。これが正に師父の「その博大で奥深い内涵は、修煉者だけが真に修める異なる次元の中で体験して悟ることができ、目の前に現れてくるもので、そうして初めて真に法とは何かが分かるのです」[2]とおっしゃっていることがわかりました。
自分を修めると、本当に修煉の中で現れた全ての魔難が、良いことだと認識できました。自分が何に執着するかは平素は全く見つけられず、魔難が生じた時、内に向けて探してやっとどんな執着があるか分かるのです。魔難も業を消す向上の良い機会なのです。何故なら人心、負債、執着を持って圓満することはできないからです。
正法の中での修煉はなんと玄妙で、超常的で幸せなことでしょう。偉大なる師父の慈悲なる救い済度に感謝いたします! 偉大なる師父の保護と教えに感謝いたします。偉大なる師父にお礼を申し上げます!
修煉の中での足りない所があれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いします。同修に感謝します。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「博大」