精進の原動力
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 ——『精進は朝煉功から始まる』を読んだ感想

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年7月3日】修煉している中で、私は「自分は比較的努力しているので、朝の煉功は私にとって難しくない」と思っていました。

 もちろん時には良く、時には良くありませんでした。すべて自身の修煉状態と関係があります。正念が強い時は、朝の煉功も比較的良く行うことができますが、正念が弱い時はあまり良くありません。正念の強い・弱いは自分の心性と関係があります。大法に照らして、自分が大法に則っていない所を正し、欲求や執着心が少ない場合、正念が強く、状態に起伏があるものの、総じて言えば、比較的に努力しています。

 私の内心の考えから言えば、精進の原動力は「他人のための心」から生まれるのです、他人を想う心です。世間の人が真相を知らずに淘汰されると思った時、自分はいくらか精進し、もっと多くの衆生を救うことができます。

 自分が良くやったかどうかは、多くの衆生にとって、結果は全然違い、恐らく彼らが未来に存在するかどうかを決定するかもしれません。自分が精進するかどうかは、恐らく多くの世間の人が未来に存在するかどうかを決定するのかもしれません。

 師父は「大法弟子とは何でしょうか? 誰が大法弟子になるのでしょうか? あなたは衆生を救い済度する使命を背負っているため、あなたの修煉のこの基礎、修煉の中の正念は衆生を救い済度するためにあるのです。もっとはっきり言いますが、あなたの今生の修煉はあなたの人間の表面の正念を強めるためであり、衆生を救い済度することを可能にしているのです」と説かれました[1]

 根本的に言えば、この努力の原動力はどこでから生まれたのでしょうか? 大法から生まれたのです。人にどれほどの気力、どれほどの力があるかではなく、実は修煉者の心性が大法に合った後に、大法が修煉者に与えた力で、この力はまた衆生を救い済度することができるのです。

 人間は実はとても弱く、心を修めることを注意していない時、とても弱いのです。そんなに強靱な力を持つことができないので、あのような力は常人を超えており、大法によって授けられます。修煉者が大法によって本当に修煉した後に、ようやく持つことができるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」ためのものです】

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/17/423463.html)
 
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