理性的に、正しく発正念しよう
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文/大連市の大法弟子

 【明慧日本2021年9月2日】突発なことがある度に、同修個人で編集した「発正念」の内容に従って発正念することは、現地でずっと何年も前から続けてきました。毎回、口頭で若しくは明慧ネットに開設してある私書箱を通じて各学法グループに伝達され、伝達の範囲は市内だけでなく、辺鄙な農村にも及んでいます。このようなことは年に数回あります。多くの同修は、このような発正念のやり方は問題ないと思っています。

 魔難に遭遇したら能力の高い同修に発正念の内容を編集してもらって、そして皆は協調人が通知した内容に従って発正念をするのが常態になっています。しかし、それは、大法の要求に従って発正念をすることから、かけ離れていると思います。

 師父は「わたしは煉功を教えるにあたっては、すべてを一度に教えます。その目的はまさに学習者がでたらめに改めるのを案じるところにあります。機制がいったん形成されると、もはやまったく改めることができないのです。このことは大したことがないように見えますが、実は、法を重大に乱すことの始まりです」[1] と説いています。発正念の内包を変えることは、実際には大法を変えることになります。一個人の行為が大法にそぐわない場合、自分一人だけに影響を及ぼしますが、多くの同修まで巻き込んだら、その地域の全体の修煉に影響を出しかねません。

 かつて個人の理解で発正念の内容を編集、流布した人は、過去に誰にそれを教えたのか、その人に連絡して、間違ったやり方を訂正したほうが良いと思います。

 師父が私たちに要求されたことは、私たちはそうするべきです。特殊な状況で、発正念の時に一念を加えても良いですが、毎回その一念を加える必要はありません。実は、その一念を加えなくても、何をどうすれば良いかは、我々の体についている「功」はすべて分かっています。師父は「含まれないものはなく、漏れるものはありません」[2]と説いておられますが、私たちは発正念の時に「これこれと、あれだけ欲しいので、他は要らない」のようにしています。例えば、師父は私たちに洪大な宇宙を与えてくださいましたが、私たちはかえって一つ一つの小さい箱にもぐり込んで、それを掴んで放しません。それは、修煉の大道から外れることではありませんか。発正念の「内包」を重視すべきか、それとも発正念の「内容」を重視すべきかについて、字面にこだわって論争する人もいますが、それも牛の角先に向かって潜り込むようなことではありませんか。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「金剛」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「論語」

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/8/10/429383.html)
 
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