「正念を発する内涵を変えてはならない」に対する理解
■ 印刷版
 

 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年9月4日】明慧編集部が「正念を発する内涵を変えてはならない」を発表した後、私たちはそれをめぐって交流を行いました。我々は発正念をする時、基本的に師父の言われた通りにしていますが、師父のおっしゃっていない言葉を加えたこともあります。地元の迫害状況を中心にする小範囲の発正念は、いつも協調人で時間と内容を指定しています。20年来、ずっとこのように行っています。

 明慧編集部の通知を見て、「長年の発正念の仕方に問題がないか」と私たちはこれについて、初めて考えてみました。なぜ発正念の効果が目立たず、迫害がまだ続いているのでしょうか。

 今まで発正念をする時は、「勝手に自分の思いを加えて、師父の要求通りにやっていなかった」と私たちは悟りました。師父は仏教がなぜインドで消えたのかを『轉法輪』に説いておられるのです。それは、内部から法を乱されたからです。『轉法輪』を毎日読んでいても、その部分は自分には関係がないと思っています。自分は、「きっと法を乱すことをしてはいない、法をむやみに変えたりしてはいない」と思っていました。そして、師父のおっしゃった通りに発正念していないことも、一種の法を乱す行為ではないでしょうか。

 師父は、「法を乱すことには多くの形があって、その中でも内部の弟子が無意識に行なう破壊は最も気づきにくいものです。釈教の末法はこのように始まったのですが、教訓は深刻なものです」 [1]とおっしゃいました。 

 また師父は、「では、一部の僧侶は一旦常人の言葉、自らの見解で佛経を解釈したり、本を書いたりすると、ただちに人々を彼の枠に連れ込んでしまうことになります。彼は佛経の意味合いを定義したのです。釈迦牟尼佛の説いたそれほど高い次元の話、それほど深い奥義は、彼は悟らなかったのです。次元が低いからです。しかし、佛を修めている人が彼の言った話を信じてしまえば、彼は人々を彼の思想の枠に連れ込み、制限してしまうことになります。このように、彼は人々に佛を学ばせているようで、良いことのように見えますが、彼は佛法を破壊しているのではないでしょうか? 佛法を破壊するには異なる形がありえます。破壊している人は佛法を称えているようですが、実は法を妨害しています。このようなやり方は最も紛らわしく、見抜きにくく、最もひどいやり方です。これが釈迦牟尼佛の法がインドで失われた原因です」[2]と説いていらっしゃいます。

 交流の結果、これから現地の610弁公室、政治法律委員会、留置場、刑務所、公安局などの部門に対して発正念をする時は、「師父が教えてくださった訣だけを読む」と決めました。意念をこれらの部門に集中しますが、「個人的に考えた内容を中に入れたりしない」、これは私たちが現時点で悟ったやり方です。

 長年、私たちはずっと協調人が通知した内容で発正念しているので、正しい発正念の要領はもう分からなくなっています。同じ状況にあった同修と切磋琢磨して、交流してもらいたいために、今日はこれらを書き出しました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「目覚めよ」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪(巻二)』

【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/8/3/429076.html)
 
関連文章