文/海外の大法弟子
【明慧日本2021年10月2日】私は1996年の初めに両親の紹介で法輪功を修煉し始めました。子供の頃からもやしのように弱々しくて、よく熱が出て、歯が痛くて、日差しが強いとすぐ倒れ、いつも元気がありません。修煉した後、これらの症状は知らず知らずのうちに消えて、同年代の人の中で珍しいほど無病な人になりました。周りの友達は私が法輪功をやっていると知っているので、「法輪功を詳しく知らないが、あなたの体が良くなるのを見ると、この功法はきっと良いものだと分かっている」と言っています。
1999年7.20以降、私も迫害を受けました。2018年、私たち家族は幸運にもアメリカに来て、ニューヨークオレンジ郡にある法輪功の拠点の建設プロジェクトに参加しました。その後、必要に応じて別の新しいプロジェクトに移りました。この2年間、2つのプロジェクトに参加する中での修煉体験を書き出して、師父に報告して、同修の皆さんと分かち合いたいと思います。
建設現場に来て、目に入ったのは長年荒廃した家屋、空き地、ごみ、古い道具などです。中国国内でずっとオフィスに座ってホワイトカラーの仕事から肉体労働に切り替えることは、心理的にも体力的にも大きな試練となります。汚れや体力的にきつく、疲れ、寒さ、暑さなどの面で多くの難関を突破し、心性も相当高まりました。約半年の間は全身が痛くて、背中全体が痛いため夜は寝返りもできない時期がありましたが、毎日歯を食いしばって仕事を続けていました。その部分の業力を消去して全身が軽くなり、体力もつき、体も強くなって、どんな仕事も怖くなくなりました。そこからやっと、毎日の仕事を楽しんで、修煉の中で向上した後の嬉しさを味わうことができました。
1、貪欲を生じない
一時期、私は工具倉庫の管理を担当していました。古い倉庫の整理、塗装、荷物の運搬と分類、台帳管理のほか、再利用を図るため私はまたゴミの山から釘や使用できる部品などを探しました。当時、私の家は引っ越したばかりで、すべてが一から始まり、壁に何かをかけたい時に釘一本もありませんでした。アメリカでは、釘を買うのは高くて、一本単位で売っていません。一方、倉庫では床の隅にゴミの山、至る所に釘があります。もし私はこのように少しずつ掘ったり、拾ったりしなかったら、どれほどの釘がゴミに埋もれて再利用できないのかと思ったりもしますが、しかし、倉庫の釘一本も家に持ち帰ったことはありません。中国伝統文化には「道に物が落ちていても、拾って自分の物にしない」がありますが、ましてや私は大法弟子であり、このような法を正す素晴らしい仕事をしていて、少しでも貪欲を生じてはいけません。私の所有物とそうではないものを、少しでも混同してはいけません。その点において、常に心性を守ろうと自分に要求しています。
2、顕示心を取り除く
中国国内にいた頃の地位、比較的良い経済力、快適な仕事をすべて放棄しニューヨークに残ると決めた時、名利を放下しました。そしてこれからベース建設での仕事には名利心を放棄するということがないと思っていました。しかし、名利心は依然として心の底に存在しており、また時々露わになります。
このプロジェクトに初めて参加した時は、きつくて汚い仕事ばかりしていました。汚れた服を着た時、疲れた時、片隅で一人で仕事をしていた時、「私がどれだけ大変なのか、どれだけ疲れているかをどうして誰も見ていないのか」と、時々思います。このような明らかな顕示心はむしろ容易に察知でき、正念を持って消去するのも比較的容易です。時折、察知しにくい顕示心も浮かびます。
ある日、担当者にデータ一式を出してくれと言われ、私はすぐに完成させて急いで持っていきました。担当者が不在だったので、私は彼女を探しました。仕事のために責任感が強いというように見えますが、実は「言われた仕事がこんなに早く完成したのよ」と彼女にアピールしたいだけです。昼食時にやっと会えて、「完成したの、よかったね」と彼女が言ったら、「とっくに終わったよ」と言いたくなりました。すぐこれは自分の顕示心だと気づいたので、その言葉を飲み込みました。
それに、普段同修と雑談をする時も、「あなたは知らないが、私たちが来たばかりの時にやった仕事、毎日のつらさ……」とよく話して、言わんとするところは、「あなた達のこの程度のつらさは大した事ではない」と言いたいのです。実は私が来る前に居た同修たちこそが本当に苦労をしていました。彼らに比べて私の苦労は大したものではありません。
ある日、私は不意に同じ修煉者である夫に「各プロジェクトは、最初の段階はつらくて難しくて収入もないし、同修たちは手伝いに来ない。いざ軌道に乗って環境が良くなり、給料も払えるようになったら、皆が寄ってくる」と言いました。主人は「あなたの話を聞いていると、ちょっと心のバランスが取れていないようだね。それぞれの修煉者にはそれぞれの使命を持っていて、いずれも自分のためにやっていることだが、どうしてあなたはそのように思うのだろうか」と言いました。私はなるほどと思いました。初期の努力は、プロジェクトを成功させるためだったのではありませんか、土台ができてからもっと多くの同修に入ってもらいたいためではありませんか、皆が給料をもらえることは良いことではありませんか。不意に話したのですが、その裏には正しくない念があったからこそこのような言葉を口にしたのです。やはり背後には顕示心と嫉妬心があったからです。
ある青年ダンサーと交流していた時、彼女は「私たちが練習する時、ある人は動作がうまくできなくて一生懸命練習して、誰よりも努力したが、やはり動作が間違っていた。彼女は最初から正しい基準で練習していなかったからだ。一方、ある人は動作がうまくできない時に、問題がどこにあるのか、どのようにしたら正しい動作になれるかを落ち着いてよく考えて、そして練習に移った。結果として、それほど苦労しなくても、動作は合格になったのだ」と話してくれました。とても感銘を受けました。私たちは大法のプロジェクトに参加する中で衆生を救うことをしていますが、もし考え方が不純で大法の基準からずれると、どうやって大法の素晴らしさを証明できますか、どうやって衆生を救えるでしょうか。そのため、いつでも自分の問題を探して、自分を正してこそ、衆生を救う使命をもっとよく果たせると思います。
3、考え方を変え、後天的な観念を取り除く
プロジェクトの仲間たちと心を開いて交流することができるまで、時間がかかりましたが、その時間も修煉の一環だと思います。中国から出国したばかりの頃は、人に対する警戒心、悪いほうに思ってしまう心理など私にも少しありました。そして、アメリカに来てすぐ同修が「西洋社会では、人と人の間はとても友好的で、他人の何かを言うことはなく、せいぜい軽く指摘する。西洋人は中国人ほど極端な話し方をすることもなく、中国人より傷つきやすい」と言うことを聞きました。そのため、周りの同修の間違ったところを見ても私は言わないことにし、相手の言うことが法理に則っていない分かっていても、相槌を打つ時もあります。友好関係を維持しトラブルと隔たりを避けたいと思いましたが、実は「お人好し」と「真・善・忍」を守ることを混同していました。
同修から「人情のものが多い」と指摘されると、私自身も確かにそのような問題があるような気がします。師父は「あなたは大法弟子なので、誰かに問題があると気付いても何も言わないのは、本人にとって良くないのです」[1]と言われましたが、しかしどのように相手に反対意見を言えば良いかが分かりません。言うと相手を批判するようことになり、受け入れてもらえず、逆に私自分も難しい立場になります。
ある日、同修AさんがBさんの不足点を指摘する場面に出くわしました。Aさんはとても穏やかで、きちんと問題点を言い当てたのですが、Bさんを困らせることなく、恥をかかせることもなく、喜んで受け入れてもらって、最後にBさんに感謝されました。どうしてAさんはあんなに純粋な心でものを言うことができ、私にはできないのかと考えました。私の思考過程はだいだいこんなものです。初めて同修の問題点を見た時、「彼はたまにこうなるんだ」と思います。2回目に見たら観念を持つようになって、「ああ、彼はこんな人だったのか」と思います。3回目に見たら先入観を持ってしまって「彼はやはりこのような人間だ」と思います。4回目に見たら感情的になって、「彼はどうしてこんなことをするのだろう」と思います。その時、もし彼に問題点を指摘すると、言葉の背後にすでにいろいろなものを帯びて、それに加えて自分の先入観や嫌う気持ちを隠すために、言っている言葉も曖昧で真意が伝わりにくくなります。
師父は「ただ常人社会の人は常々他人に良いことを教える時も自分の観念をもち、ひいては損失を被ることを恐れ、自分を守ろうとする心をもっています。いろいろなものが入り混じっているので、話した言葉は聞き手にとって意味合いが変わり、純正さもなくなり、その上往々にして言っている本人の感情も入っています。本当に善の心から、如何なる個人的な観念も入り混じらなければ、あなたが話す言葉は人を感動させることができます」[2]と説かれました。自分の不純な思想がどのように形成したかを思い出して、それを除去して、思想を簡単にさせ、できるだけ人や事に対して観念を形成させないようにしています。
どんな問題に対して意見を言うべきか、言うべきでないかを分別がつくまで、心性の試練もありました。女性同修のCさんはよく私に無礼な態度で、「〇〇さん、あれをしてこい」とか言います。特に人前でそう言われたら、私は笑顔で彼女の指示に協力していても、心の中では嫌でした。
「Cさんの態度、ちょっとひどくない?」と言ってくれる同修もいますが、そのことはきっと私の執着心を狙って起きたことなので、やはり内に向けて自分を修めるべきだと思って、Cさんの言い方や口調を気にしないように努力しています。ある日逆の角度から、Cさんは自分を修めること、自分を直すことを知らないのではないか、それならばCさんに教えてあげたほうが良いではないかと思いました。夫と交流をすると、夫は「彼女があなたにこういう態度で話すのは、プロジェクト全体に影響したのか、他の人に迷惑をかけたのか」と聞いて、私は「影響と迷惑なんかはない」と答えると、夫は「それなら、彼女の態度はあなたを修めるためのものだと思う」と言いました。なるほど、夫の意見はとても理にかなっていると思います。
Cさんの態度に動じなくなった時、Cさんの態度には全く悪意がなくて、周囲の人は彼女の言うことを聞いて何とも思わないが、ただ自分にはきつい言い方をされると平静でいられなくなる執着心があるから、Cさんの態度が気に食わない、しかし、すべては私の心性を高めるために起きたことだ、と思いました。そうしてこそ、相手の感情や口調に動かされない硬い意志がはじめて形成され、心を静めて相手の話の真意を捉えることができ、表面を通して本質を見出すという今より大きい智慧を備えることができます。
私はよく物事や人を決めつける言い方をする、と同修は教えてくれました。そのおかげで、そうなった原因を探して、自分を直して、向上することができました。例えば、ある同修の話し方が硬いのを見て、彼女にはきっと「善が足りない」と決めつけて、グループ交流の時にストレートに「あなたには善が足りなくて、話す口調はとても硬い」と言ってしまいます。私が「〇〇さん、普段もうちょっと柔らかい口調で喋ったら良いかもしれない」を言ったほうが、相手に受け入れられやすいと思います。同修の共産党文化的な言動を見て、すぐ「あなたが持っている党文化は深刻なものだ」と言ってしまいます。もともと、これは私の話し方の問題だと思っていましたが、今になってようやくそれは考え方の問題だと悟りました。話し出した瞬間、同修に今の状態より良くなるためにどうすれば良いかを提案するのでなく、あなたがどんなに悪いかを教えているのです。善意が足りないのです。これでは師父の説かれた「私たちは善の心を重んじ、人に対して善の心を持たなければなりません」[2]に同化していません。
もう一つ私の「決めつけがち」の思考回路の特徴と言えば、自分が経験したことに対して、以前の経験に基づいて判断し、推論し、物事の発展は必ずそうだと、結果もきっとそうだと決めつけがちです。「あなたがもし一定のエネルギーを持っている場合には、あなたが言ったことは必ず作用するのです。そうでないことをあなたがそうだと言えば、本当にそうなってしまいます。そうなると、あなたは悪いことをしたことになります」[3]
これらの後天的に形成された意識、観念は容易に察知できませんが、掘り下げて探し出してこそ、それを狙って除去することができると思います。後天的に形成された思考の枠を除いてこそ、はじめて返本帰真することができ、自然的に善意を帯びる話し方と行動ができるようになると思います。
去年の10月から、私は別のプロジェクトの倉庫で働くことになりました。ある日、市場調査をするため宣伝チームの同修は十数点の物品を倉庫から借りて、しばらく経っても返しにきていません。倉庫で働く同修は私に「早く返すように催促しなければならない。催促しないと忘れられてしまう」と言うと、宣伝チームは、「いつも催促されると、こちらは緊張して仕事ができなくなる」と言います。
こちらに催促しろと言われながら、あちらに催促してはいけないと言われて、どうしたら良いか分からなくなるので、やはり修煉の観点からどうするか考えてみましょう。「催促する」ことは、倉庫の管理に責任を持つやり方ですが、相手のために考えていないことや、相手の仕事に協力しない要素も含んでいます。「催促しない」ことは倉庫の管理に責任を持たないやり方で、手順を踏んで貸出だけをして、相手が忙しくて忘れてしまう時の対策がないと言うことになります。それでは、仕事に責任を持つと同時に他部署にも協力するというやり方と態度は何でしょうか。一定期間を経てから借りる人に注意喚起をする方法が良いと思います。催促はしないが、注意喚起のメッセージがあれば、借りる人も程良い緊張感を持って仕事を進めることにつながると思います。
このことは小さくて簡単そうに見えますが、私にとっては、問題をどう解決するかだけでなく、修煉者として真・善・忍の基準で自分の行動を計ることの勉強となり、修煉の一環となったのです。
知らず知らずのうちにアメリカに来てもうすぐ3年になり、一心にプロジェクトの仕事をしていて、私たちのプロジェクトがもっと発展を遂げて、より多くの衆生を救えることを望んでいます。拠点の隅々には、同修たちの努力と汗が残っています。大法弟子の力で元の廃墟が今の生き生きとしたベースにができ上がり、それに法を正すことに大きな役割を果たしているのを見て、ベース建設の一員として大きな責任、また満足と誇りを感じています。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『世界法輪大法デーでの説法』
[2] 李洪志師父の著作:『シンガポール法会での説法』
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
(2021年ニューヨークオレンジ郡修煉体験交流会の発表原稿)