神の道のりでの助け手
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年10月20日】昨年、私は師父の慈悲なる按排の下、数カ月間、1人の同修と一緒に過ごしました。当時の状況は非常に厳しいものでしたが、師父と大法の導きのおかげで、試練や関を繰り返して乗り越える中、法理上突破でき、境地も向上して来ました。振り返って見ると、当時極めて苦しかった難関は、大変貴重なことでした。心から恩を感じています。

 私は不慣れな環境で、不慣れな人と最も苦しい修煉過程を歩みました。その間、一連の激しく、集中的で、心をえぐるような衝突や摩擦が続きましたが、それは最も付き合いにくい人、つまり、修煉を始めてまだ日が浅く、常人の環境で大きく汚染された新しい学習者に出会ったからです。また、自分自身の業力や様々な観念、嫉妬などの人心が原因で、お互いに非常に苦しんでいました。ある日、彼女が食事を作った後、私がキッチンに入ると、目の前は一面散らかっていました。それらを片付けていた時、私の心の中はひっくり返っていました。良くない考えが浮かんできて、自分の心のバランスが取れず、利害損得の計算、怒りなどが激流のように押し寄せてきました。

 しかし、落ち着いてこの空間、迷いの世界から抜け出して見てみると、自分を苦しめたり、傷つけたり、印象が悪いと思わせたり、近寄りたくないと感じさせたりした周囲の人こそが、私たちの修煉の道のりにおける真の助け手であることがわかりました。

 常人社会でさまざまな人と接する中、たとえ修煉者の集団環境の中でも、私たちはしばしばこのような非現実的な虚像に陥りやすく、絶え間ない摩擦や捨てがたい欲望、トラブルに巻き込まれます。時には喜び、悲しみ、時には心配し、危惧し、人間の思惟や悪い観念など、法に符合しないものに絡め取られ、縛り付けられ、引っ張られて、閉じ込められてしまいます。このようなドラマの起伏の中で、助っ人のリアルな言動で、悩み、怒り、悲しみ、嫉妬、心配、苦しみ、執着、楽しみ、慰め、喜び、印象が悪い、捨てられない…あらゆる感情と心、執着と観念などが存分に描かれております。これらの 悪いものは、私たちが神に向かって歩む過程において、私たちが近寄りたくない、付き合いにくい助っ人によって現れます。しかし、私たちはドラマに巻き込まれがちで、常に相手の欠点に目を向け、損得を考え、損をしないようにと思うのです。気にしないと思えば思うほど気になり、また不平不満を覚えてしまいます。

 実は根本から見ると、本当に私たちを苦しめているのは、これらの人自身ではなく、修めなければならない私たちの人間の思惟、悪い観念、様々な人心や執着、人間的な情などです。それらは、旧宇宙の自分のためという属性が私たちのよく修めてない部分において、それに対する操りであり、私たちの心を動かしたのです。

 観念を変えて、理性的に物事を見極めると、私たちの修めきれてないよくない部分に触れたため、周りの人によって、私たちの直すべき欠点が顕在化されたのです。修煉の道を歩む私たちに付き添う、ドラマのストリーに合わせた人間の理と情に合わせた彼らの言動がなければ、どうやってドラマのなかで自分を見つめ、自分の欠点を見出し、根本的な原因を分析し、法の中で自分を正せるでしょうか。

 異なる次元と境地において、向上に必要な機縁と環境を整えてくださった師父の慈悲と無限の知恵に感謝致します。師父は弟子が人間の中から抜け出し、神に向かって歩めるように様々な試練を按排してくださいました。また、修煉の道を一緒に歩み、助けて下さった同修の皆さんにも感謝致します。もちろん、修煉の道には、他にもたくさんの助っ人がいます。三つのことをしっかり行なうようにと、気づかせてくれたり、支えてくれたり、背中を押してくれ、引っ張ってくれて、貴重な助けを頂きました。正法の最終段階において、お互いにしっかり助け合い、一緒に正法の最終的な道を歩んでいきましょう。

 最近悟った内容ですので、法理に符合しないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

  【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語://www.minghui.org/mh/articles/2021/5/1/424035.html)
 
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