明慧法会|紛争時内に目を向けて執着をなくす(1)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年11月27日】

 師父、こんにちは。修煉者の皆さん、こんにちは。

 私達の学法グループでは3人の修煉者がいます。そのうちの1人であるAさんは、この10年間、よく私と喧嘩をしていました。

 私たちはたいてい同じことで議論しています。Aさんが誤解して、私に濡れ衣を着せているのだと思います。Aさんは「あなたは良い友達だと思っていたのに、私が辛い時に助けてくれず、失望してしまった」といつも言っていました。

 私は何度も状況説明をしましたが、彼女はいつも私が自分を守るために言い訳をしているだけだと答え、それが彼女をさらに怒らせました。そして議論するたびに、気まずい思いをして終わりました。

 一、人心を探す

 このままではいけない、自分の内面を見つめ直して改善していかなければならないと思いましたが、どのような執着を捨てていくべきなのかが明確ではありませんでした。

 そこで思い出したのが、師父の次の詩です。

 「強辯に遇えば争論す勿れ  内に向けて因を求むは修煉  釈明しようとすればするほど心重し  坦懐にて執着無ければ知見出づ」[1]

 なぜ私は自分のことを説明しなければならなかったのでしょうか。そして私は、まだどんな執着を持っていたのでしょうか。私は自分が悪者にされたり、恥をかかされることはしたくなかったのです。もしかしたら、これは忍耐力を養うチャンスなのかもしれないと思いました。

 師父はこう説かれました。

 「なぜなら常人を相手にする以上、さまざまな常人の心が妨害してくるからです。人の病気を治してやっても、本人はまったく理解しない場合もあります。病気の治療をする時、どれだけ悪いものを取り除き、どこまで治してやったのか、すぐにははっきりした変化が現われないこともあります。それで、その人は機嫌が悪く、感謝するどころか、騙されたと罵るかも知れません! こういうことに直面して、どう対処するか、といった環境の中で、人の心は磨かれていくのです」[2]

 このように理解したことで、私はこの状況にうまく対処することができました。しばらくの間はAさんの皮肉な発言にも冷静に対応できました。しかし、すぐにまた衝突が起こりました。

 ある日、Aさんは私に「あなたの話し方が気に入らない。あなたが話すとイライラする」と言いました。

 学法グループの中で、私は彼女や他の修煉者よりも長く修煉してきたので、Aさんに批判されると、私は面目を失ってしまいました。

 私は心の中で、なぜAさんは私の話し方が気に入らないのだろう? 私が何を言ったのか? 過去の自分の発言を振り返ってみると、私には自分を誇示したい、自分を正当化したい、Aさんや他の人よりも優位に立ちたいという執着心があることに気がつきました。私は修煉者としての条件を満たしていませんでした。

 師父はこう説かれました。

 「わたしがいつも言っているように、ある人が他人のためだけを思って、しかも、自己の目的と認識を少しも抱かなければ、語る話は相手に涙を流させるのです。わたしは皆さんに大法を教えただけではなく、わたしの行ない方をも皆さんのために残していますが、仕事のときの口調、善の心、それに加えて、道理で人の心を変えることはできても、命令では永遠にできないのです!」[3]

 私は、どんな話題でも自分の理解が正しいことを強調して、他の同修の考えを否定してしまうことが多いことに気づきました。つまり、自分の考えに固執し、アピールする傾向があるのです。また、理屈ばかりが先行して、口調に優しさがないこともよくありました。これでは、私とAさんが対立してしまうのも無理はありません。

 そこで私は、自分で見つけたこれらの執着心を取り除く努力をしました。

 二、善を修煉し始める

 Aさんは、私が他人に対して善ではないと言いました。私はそれが理解できませんでした。私は子供の頃から、人を大切にするいい人だと言われてきており、私もそう思っていました。それに、私は今、法輪大法の修煉者として「真・善・忍」を実践しています。Aさんはなぜ私を不親切だと非難したのでしょうか?

 私は善とは何か、Aさんは私の何を見て優しさがないと言ったのかを考えてみました。

 師父はこう説かれました。

 「善を修煉すれば、大いなる慈悲心が生まれます。慈悲心が生まれると、すべての衆生が苦しんでいるのを見て、衆生を済度しようとする願望を持つようになります」[2]

 以前の私は、「善」を一般の人のように理解していました。今、私は純粋な心を持った修煉者として、本当の意味での慈悲について考え始めました。そうでなければ、彼女は私が彼女を傷つけたとは感じないはずです。

 師父はこう説かれました。

 「わたしが太原市で説法した時、学習者で五十代の夫婦が二人連れで受講に来ました。二人が道路を渡る時、一台の車が猛スピードで走ってきて、バックミラーが奥さんの服を引っ掛けました。彼女はそのまま十メートル以上引きずられたあと、ぱっと路上に放り出されました。車は二十メートル先にやっと止まりました。運転手が車を飛び降りて、『なぜ車を見ないで道路を渡るんだ』と、不愉快そうに文句を言います。今の人間は何かトラブルが起きた時に、まず責任を人に転嫁し、人のせいにします」[2]

 私は、責任を転嫁して自分に言い訳しようとした運転手と同じような行動をとっていたことに気づきました。修煉者としては誰が悪いかは別にして、自分の責任を回避するのではなく、謝罪することでAさんを気遣うべきだと思いました。そう考えた私は、Aさんに会いに行き心から謝りました。そして、上記の師父の教えについて自分の考えを述べ、彼女が私を許してくれることを願いました。

 家に帰ってからも、自分が何か許せないことをしたのではないかと内に向けて探しました。それまでに、私は思いやりのないことをたくさんしてきたことに気づきました。例えば、私は嫉妬深くて負けず嫌いなので、人と接するときに優しさを発揮することができませんでした。また、自分の人間的な考えで物事を判断し、他人を見下すこともよくありました。それでは本当の意味での「善」を持つことはできないのではないか。私の思いやりのなさは、私の言葉、行動、態度、表情に表れていました。思い入れの強い相手と口論になったとき、どうして相手を傷つけずにいられるでしょうか。私はAさんや他の人を傷つけたことを深く反省し、自分の執着心を取り除くために努力することを決意しました。

 三、名声への執着

 しかし、後になって再び争いが起こり、いつも同じような問題を抱えていました。Aさんと再び口論になったとき、私は「何のために口論しているのか」と自問しました。「名声」その一言が頭に浮かんでいました。私は少し驚き、これは師父からのヒントだと思いました。「そうだ、私がずっと戦ってきたのはこのためだったのだ、なぜ今まで気づかなかったのだろうか」と思い、がっかりしました。

 自転車で帰宅している間、私は空虚な気持ちになりました。体は軽く、少し混乱していました。自分がまだ名声への執着心を持っていることに気づき、衝撃を受けたのです。名声とは一体何なのかを考え始めました。

 名声への執着の現れの一つが、誤解されないように自分を守ることだと気づいたのです。このため、私は他人の主張を受け入れることができず、本当の意味での思いやりを持つことができませんでした。結局、自分の名声のために議論しているときには、善を持つことができないのです。

 また、名声を求めると、当然物事を自然に任せることができませんでした。むしろ、人に良い面を見せたり、自分の欠点を隠したりして、良い評価を得ようとします。そのため、良いことをしているように見えても、本当は人のためになることではなく、自分の評判を守ることが動機になっていました。

 名声への執着は、利己主義の一種であることに気づきました。そのため、修煉者と議論したり、相手の気持ちを考えなかったりしていました。これは法輪大法の学習者に求められていることとはかけ離れています。

 師父はこう説かれました。

 「日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません」[2]

 師父はこうも説かれています。

 「名声に執着するならば、有為の邪法で、もし世間に名を売っているのであれば、必ず口では善いことを言っていても、心は魔であって、大勢の人を惑わし、法を乱します」[4]

 (続く

 注:
 [1]李洪志師父の詩:『洪吟三』「辯少しに」
 [2]李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3]李洪志師父の著作:『精進要旨』「はっきり目覚めよ」
 [4]李洪志師父の著作:『精進要旨』「修める者忌」

 (明慧ネット第18回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/11/12/433259.html)
 
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