文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年12月22日】先日、私がパソコンを使っていたら、ブロックしていたはずのネットグループが急に画面に現れてきました。そして、それらが書いた伝言を見て私は我慢できなくなり、さらに口論になってしまいました。
振り返ってみると、我慢できずに口論したことは、良くないことだと思いました。よく考えてみると、これはそんなに単純な問題ではないと思いました。なぜブロックされたネットグループが急に出てきたのでしょうか? なぜ他の人が私のことを話している時、それが出てきたのでしょうか? それは根本的に私の闘争心を取り除くための注意喚起だったのだと気がつきました。
昔から、私にはこの面での問題があって、言い争いや喧嘩をよくしていたのです。それは間違っており修煉の道にそぐわないことは分かっているので、少しずつ克服していたのですが、それでもこの問題に真に目を向けていませんでした。私は昔の自分よりもはるかに良くなっていると思っていたため、私は法の要求からそれほど離れているということに気づいていませんでした。
争いの心はなぜ続くのでしょうか? 実はこれは共産党文化なのです。中国本土で育った人々は、中国共産党の暴力文化と階級闘争によって多かれ少なかれ影響を受けてきました。その結果、物事に負けん気を起こす、腹を探り合って互いに暗闘する、双方の論点・行動などが真っ向から対立する、面倒なことや争いを引き起こす、わざと騒ぎ立てる、へ理屈をこねる、しきりに絡みつく、お互い相容れない状況や行動などに人は慣れてしまっています。しかし、真面目に考えれば、これは修煉の道にそぐわないばかりか、謙虚さや礼儀、品性・品行が高尚であること、嘉言善行(かげんぜんこう:素晴らしい言葉と立派な行いのこと)、仁義の道を実行するには及びません。通常の伝統文化でさえ、中共文化とは程遠いものです。修煉者として、こんな低レベルなものにどうやって左右されるのでしょうか?
以前は、闘争心について、あるのが当たり前だと考えていました。心性が向上してから、それまでの自分が完全に間違っていたことに気がついたのです。師父は『轉法輪』の中で、「一人の煉功者としては、まず殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、ひたすら耐えられるようでなければなりません」と説かれました。よく法を学んで、自分を修めていると思っていますが、どうして忍耐することができなかったのでしょうか? 慈悲心のある大覚者は、闘争心を持っているでしょうか?
中国本土で育ち、党文化に洗脳されてきた同修は、このような問題を抱えている人もいるかもしれないので、同修の参考のためにこの文章を書き出して、注意を喚起しようと思います。