文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年12月16日】師父の新しい経文『目覚めよ』を初めて読んだ後、私はとても悲しい気持ちになりました。たどたどしくふらつきながら修煉の道を今まで歩んできました。どれくらいの時間を無駄にしていたのでしょうか。最後の自分の行方はどうなるのでしょうかと考えました。 数分後、私は猛然として目が覚めました。将来、自分が円満成就できるかどうかを考えていたのですが、まだ救われていない衆生のことを考えていませんでした。私はあまりにも利己的で、将来何が起ころうとも、今行うべきことを行うべきで、他の按排は師父が段取りしてくださるのです。
また、同修の中にも消極的な感情を持っている人がいます。 私は大きな変動のたびに多くの試練が私たちに与えられると感じています。同修の心がどう動くかを試されるのです。私たちが自分のことを考えているのか、それとも他人やすべての衆生の命を考えているのかを試されます。
明慧ネットは師父の新経文に関する交流記事を次々と掲載しており、これらの交流から私は師父の導きと、師父が私たちを審査されているのが見えました。 もし大部分の弟子が円満成就の基準に達していなければ、次の法がこの世を正す時期に残されます。それでも、自分はまだもっと高い次元へ修煉ができると思っているのなら、修煉の基点が最初から間違っているのではないでしょうか。修煉者として終始自分のことしか考えないこと自体が最も根本的な問題だと思います。ここで、同修の意見が正しいとか間違っているとかと非難しているわけではありませんが、これは師父が私たちにこの最も根源的な利己主義を放下するように、悟らせてくださっているのではないかと感じています。
師父は「法を正すことがここまで来ており、もうすぐ終わるので、これからのことを用意しなければならない、ということも考えないでください。皆さんに教えますが、如何なる心も大きな魔難をもたらすのです。くれぐれも如何なる心をも生じさせないでください! 正々堂々と修煉し、目の前の行うべき如何なることをもしっかり行ってください。明日圓満成就しても、今日はやはり段取り良く行うべきことを行わなければなりません。なぜならば、大法弟子が今日行っている全ては皆これからの人に残すものであり、これがこれからの人の修煉の道です」[1]と説かれました。
「昨日うまくいかなかったことを悔やんでも仕方がありません、急いで行動して、もっと多くの人を救おう、できることなら1人でもいいから救おう」と私は考えました。そして、同修がずっとやりたいと思っていた人を救うための新しいプロジェクトを一緒に考え、今回は本当に行動に移しました。
感染拡大で混乱している中で、感染状況とワクチンの問題にとらわれている多くの同修を目の当たりにしました。 そのような同修の修煉状態が悪いのではなく、取り除かれていない同修の恐れる心があるのです。
師父は、「私がいつも言っていることですが、大法を学んだら、良いことにあっても悪いことに遭っても、皆良いことです」[2]と話されました。
間違っていたら改めるべきで、ため息をついてはいけません。すべて人心なのです。また、うまく行えた学習者は、満足してはいけません。これも人心なのです。
道の未来をどのように進むのかは、自分自身にもよりますが、実際には、手放すことができないのは全部その自我であり、自分自身はこうなるのではないか、ああなるのではないかと恐れているからです、その自我を捨てて、気軽に修煉の道を歩み、法を信じて、師父を信じて、佛法は無辺であることを信じて、自分自身で盲目的に想像しないで、もっと本を読んで、正しく法を学んで、人々を救うために出かける努力をしましょう。
師父は「いずれにせよ、修煉者として、必ず修煉者のやり方、修煉者の考えで物事を考えなければならず、決して常人の考えで物事を考えてはいけません。あなたがぶつかったいかなる問題も単純なことでも、偶然なことでもなく、常人の中の問題ではありません。必ず修煉に関係があり、あなたの向上に関係があるのです。あなたは修煉者なので、あなたの生命の道は変えられ、あなたの修煉の道は新たに按排されたものなので、この道に偶然なことはありません。しかし、その現れ方は必ず偶然の状態なので、この迷いの中、常人と同じ状態の中で、はじめてあなたが修煉しているかどうか、あなたの修煉がよくできているかどうか、あなたがこの次々と現れてくる関を乗り越えられるかどうかを見ることができます。これこそ修煉であり、これこそ正しい悟りの道なのです」とお話されました。 [3]
少しばかりの認識ですが、不適切なところがあれば同修のご叱正をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年元宵節での説法』
[2] 李洪志师父の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』
[3] 李洪志师父の著作:『ロサンゼルス法会での説法』