誓いを果たさないとどんな結果になるか?
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年12月28日】師父の新しい経文「目覚めよ」が発表されてから、私は何度も読み返しました。深く感動しましたので、私の考えを同修の皆さんと共有したいと思います。 

 師父はこう説かれました。

 「法が天体を正すことはすでに終了し、現在法がこの世を正すことに移行しつつあります。大部分の大法弟子は師父とともに法がこの世を正すことを行います」[1]

 「しかし、この過程で数多くの、業力が非常に大きい生命と共産邪党分子は尽きるまで淘汰されます。また、大法の学習者でこの世にやってきた時、生命と引き換えに交わした誓約を果たさなかった人、例えば大法弟子のことにしっかり取り組まず、人を救うことを行なわず、それによって人心が重く、長期にわたって学習者の修煉環境を妨害している人、邪に悟った人や学習者になりすました中共スパイについて行き、学習者に深刻な妨害をもたらした人はいずれも、誓約が実現される中でその結果を引き受けることになります」[1]

 師父の「結果を引き受ける」[1]という言葉に、私は「どんな結果が出るのだろう?」と思いました。このことは、大法修煉の深刻さと緊急性を思い起こさせるものでした。法を正す必要性から、師父はすべてを肩に担いで法を正す終了時期を何度も延長してこられました。しかし、多くの修煉者は法を正すことの終わりを待っているだけで、人々を救うために必要なことをしていません。

 一部の修煉者は、生と死の執着を恐れ、手放すことができません。緊張感を感じると、彼らは街で人びとに法輪功に対する迫害の真相を伝えることのをやめてしまうのです。大法弟子に求められる三つのうち、二つのことしかしていません、つまり、法を学び、正念を発することだけです。(注:三つのこと、すなわち、①法を学び修煉すること、②正念を発すること、③人々に法輪功を紹介し、法輪功に対する迫害の真相を伝えること)

 邪な悟りをした人もいます。彼らはもともと本物の修煉者ではなく、人々を救うための活動もほとんどしていませんでした。迫害の圧力の下で、彼らは大法に疑問を持ち、完全に信仰を放棄しました。中には、大法の本を警察に提出した人もいました。私の地元にもそのような人が何人かいましたので、彼らを修煉に戻そうとしましたが、無駄に終わりました。

 また、自分は十分に人を救い、標準に達している、あるいは平均的な修煉者よりも優れていると思っている人もいます。彼らは、自分がすでに一定のレベルまで修煉していると信じています。満足して、最後の圓満の瞬間を待っているのです。

 昨年、政府のブラックリストに載ったすべての修煉者に信仰を放棄させることを目的とした大規模な「ゼロ行動」が始まった後、多くの修煉者は自分の身を守りたいだけで、人々を救うために何かをしようと思わなくなりました。私の地元、特に地方では、このように考えている同修がたくさんいます。このような考え方は非常に危険であり、修煉者としてのあり方から逸脱しています。

 例えば、私たちが戦争中の兵士だったとします。すべての戦いで多大な努力をし、多くの勝利を収め、ある程度の評価を得て、ある地位に昇進したとします。自分の任務以上のことを果たしたと感じ、自分を守りたいと思ったのです。しかし、戦争は終わっていません。次の戦いでも自分の位置や役割が按排されていたのにもかかわらず、私たちが任地に行かず、十分な努力をしなかったりして、大きな損失を被りました。終戦を迎えたとき、私たちはその結果に耐えられるでしょうか? それまでの功績は、私たちが引き起こした損失を埋め合わせることができるでしょうか?

 三国志では、蜀漢の武将であり戦略家でもあった馬 謖(ば しょく)が、戦略上の要所である「街亭」を守ることを军令状(軍令を受けた時に出す保証書で、任務が達成できない場合は処罰されてもよいという決意を表明するもの)を書きました。しかし戦略を誤って戦いに敗れ、多くの兵が殺されてしまいました。

 馬は戦場から逃げず、流れを変えようと最善を尽くしたのですが、成功しませんでした。そして最終的に蜀の宰相・執政の諸葛亮(しょかつ りょう)は、敗戦の責任を問い馬謖を死罪としました。諸葛亮は、涙を流しながら処刑を命じたのです。

 人との間で結ばれた军令状もとても重大で、それを尊重しなければならないことは言うまでもありません。しかし私たちは天上でこの誓いを立てており、師が宇宙の法を正すのを助けるために命を捧げて選ばれた天上の代表として、大きな使命を背負っています。神も羨む大法弟子という大きな称号を与えられていますが、私たちがよく行わないなら、誓いを守ることができないなら、それで大丈夫でしょうか?

 私たちの多くは、その誓いの具体的な内容を知りませんが、師は次のような指摘をされています。

 師父はこう説かれました。

 「大法弟子の修煉は個人の圓満成就のためだけではなく、衆生を救い済度することは大法弟子の責任であり、大法弟子という称号を持つ修煉者が必ず成し遂げなければならないことです。法会を通じて経験を総括し、大法弟子の誓いと責任をよりよく全うし、さらによく行うことを期待します」[2]

 師父は慈悲深く、私たちにチャンスを与え続けてくださいました。しかし、多くの同修は師父の慈悲を保護して下さる傘のように受け止め、誓いを果たさなかった場合の結果を真剣に考えていません。誓いは決して単なる形式的なものではなく、最後には果たされなければなりません。

 師父はこうも教えてくださいました。

 「皆さんは大審判のことを聞いたことがあると思います。当初、とても次元の高い神は法を正すことが終わるとき、大審判が行なわれるよう按排しました。地獄に落ちたものと死んだ衆生も復活して審判を受け、生きている人も審判を受け、全宇宙のすべての神も漏れることなく審判を受けるのです。西洋の伝説にも大審判の説があります。悪事を働いたもののみが審判を受けるのではなく、正の作用を果たした人と神も、大法弟子を含めて、審判を受けるのです。すべての生命は歴史の中で行なったことに対して自分で責任を負わなければなりません。特に宇宙で法を正す中で、誰がどういう目的で、何を行なったのか、小さいことであっても、責任を負わなければなりません。法を正す中で正の作用と負の作用を果たすと定められた神、鬼、微小生命まで審判を受けなければなりません。正の作用を果たすものも同様に審判を受け、行なったことの中であなたがしっかり行なわなかったために、どれほどの衆生が救われ済度されなかったのでしょうか? もし大法弟子であれば、あなたの誓約はどれだけ実現されなかったのでしょうか? 誓約が実現されなかったことはただの一つの側面ですが、あなたが行なわなかった、またはしっかり行なわなかったために引き起こしたすべての結果に対して、大小に関わらず、いずれも責任を負わなければなりません。あなたの行なったすべての事によって大法にもたらした恥辱と主に対する欺きに対して、責任を背負わなくてもよいのでしょうか? このことは以前話したことがなく、私はこれらのことを言いたくはなかったのですが、皆さんは本当に目覚めなければなりません。もうどういう時になったのでしょうか?」[3]

 師父はある修煉者の質問に答えて、はっきりと説かれました。

 「弟子:数多くの大法弟子が円満成就できなければ、法を正すことが終わってしまったら、これらの大法弟子はどうなるのでしょうか? 残って引き続き修煉するのでしょうか?

 師父:どうなるのか、私も言ってはいけません。別々のことです。通常、交わした誓約通りになります。二回目の機会はありません。二回目の機会はありません」[4]

 師父も真剣に指摘しています。

 「精進していない大法弟子、極端に走る大法弟子は直ちに、自分自身を正し、誠心誠意に法を勉強し、修煉してください。なぜならば、このような弟子は最も危険だからです」[5]

 中国共産党の脱党者数が毎日4、5万人前後で推移しているのを見て、かなりの数の大法学習者が責任を果たすために名乗りを上げていないことを実感しています。

 同修の皆さん、最後の瞬間を捉え、協力して誓いを果たそうではありませんか。慈愛に満ちた師父を失望させてはいけません。

 以上、私のレベルでの理解ですが、適当でない所があれば、慈悲なる指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『目覚めよ』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「ヨーロッパ法会へ」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「新唐人テレビ討論会での説法」
 [4] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
 [5] 李洪志師父の経文:『理性』

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/12/5/434391.html)
 
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