大法修煉の中で実証した奇跡的な出来事
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文/山東省の大法弟子

  【明慧日本2022年3月10日】私は今年64歳で、退職する前は文化センターで働いていました。2004年に私は『轉法輪』という貴重な本を学び始めましたが、一度学ぶともう手放せなくなりました。しかし、煉功は2005年になってやっと始めました。まだ煉功を始めていない時でしたが、私の手が触れたところは帯電しており、学法する中で私はすでに功を持っていることが分かりました。

(一)

 ある日、私の家の向かいの人が熱々の豆腐を我が家に持ってきてくれました。目を赤くした涙目で感激して私に話をしてくれました。一昨日彼女は急性虫垂炎に罹って、入院して手術をしなければなりませんでした。しかし、彼女が飲まなければならない2種類の薬の副作用がとても酷いので、彼女はとてもびっくりしました。幸いにも私が彼女に話した真相の話と小冊子を思い出して、すぐに小冊子を見ながら、心をこめて『法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい』の真言を念じたことで、奇跡が現れ、急性虫垂炎は良くなり、手術をする必要がなくなりました。そして3日目には退院して家に戻りました。私は喜んで彼女に言いました。「あなたが法輪大法を素晴らしいと信じたことで福報を得たことは、私にとっても嬉しいことです」さらに私が聞いた多くの福報を得た例がありますが、それはもう言わないことにします。

 (二)

 ある時、私は娘の家でパソコンの使い方を習いたいと思いましたが、パソコンが壊れていました。家族はその当時修煉がよくできていなかったので、「部品を取り換えなければダメかもしれない」と言いました。私は「同修たちのパソコンが壊れた時は、まず修理するのではなく、発正念したらよくなります」と言いました。私がそう言うと、娘婿は即座に、「それでは発正念してください」と私に言いました。私は元々ちょっと言ってみただけだったのですが、娘婿がそう言うので、私はしっかり発正念しなければならないと思い、部屋の中で座禅を組んで発正念をしました。10分もしないうちに、娘が私を呼ぶ大きな声が聞こえましたが、私が黙っていると、彼女はまだ元気よく呼んでいるので、「何の用があるの? 私は発正念をしているところなのよ」と言いながら部屋から出てみると、ひと目でパソコンが直っているのが分かりました。私は娘婿に、「部品を取り換えたの?」と聞くと、「取り換えていません」と言いました。私は嬉しくて、「ほら、私が発正念をしたのでパソコンが直ったのよ」と言いました。娘婿は半ば冗談で、「今後誰かがパソコンを直して欲しいと言って来たら僕も発正念しますよ」と言いました。私は、「あなたは修煉していないからとても無理ですよ」と言いました。娘は、「お母さんはちょうどタイミングがよかったのね」と言いました。私にこのような能力があることを娘は信じていないことを私には分かっています。

(三)

 かつて、甲同修は勤務先の庭を出た所で、壁の両側に人々を害毒するスローガンが書かれているのを見かけました。私も見に行ってみると、白い壁に赤い文字が書かれていることに気付きました。私はそれを消すためには白いペンキを使うのがよいと提案しました。白い壁の上に黒いペンキを塗ると、書いた人達の反感を買うかもしれず、今後真相伝えで人を救う際、三退を勧めるのに不利になるかもしれないと思いました。しかし、甲同修はすでに黒いペンキを準備していました。私は白いペンキにもうこだわらないことにしました。私達が使う準備ができて、ペンキの缶の蓋を開けてみると、黒いペンキが白いペンキに変わっていました。甲同修はすぐにこう言いました。「どうやら白いペンキで塗った方がいいようですね」当時、もう一人の同修がいて、私達3人は今回の奇跡を目撃した証人となりました。

 (四)

 ある年、まだ6歳にも満たない孫と孫のいとこは私と一緒に、私の真似をして結跏趺坐をしました。私は彼らに『法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい』の心からの九文字を念じるように言いました。彼らは真面目に何度も念じました。しばらくして、孫は私の眼の前にやって来て、私が胸元に付けていた小さな法輪バッジをじっと見つめていました。さらに法輪バッジに近づいて、頭をかしげながら見て、その後また反対側の方に頭をかしげて見ていました。私は孫に「大法バッジがこちら側に回ったり、あちら側に回ったりするのが見えるの?」と聞きました。孫は真面目な顔で頷きました。孫は「法輪バッジが欲しい」言いましたが、私は修煉していない人にはあげません、と言いました。孫のいとこには法輪バッジが回っているのが見えませんでした。私は彼女に師父の法像のお写真をちょっと見せてあげましょう、と言って『轉法輪』の中の師父の法像の写真を見せてあげました。彼女は見ると驚きと歓喜の声をあげ、孫は私に微笑みました。私は感激して、「師父はどんな感じであなたに微笑みましたか?」と彼女に聞きました。彼女は、「師父は口角を上にちょっとあげて微笑んでくれました」と言い、同時に彼女の両方の小さな手は顔の上で上に向かって飛ぶ動作をしました。私は彼女に、「あなたはとても幸運です、あなた達2人の行いがとても良かったので、師父はあなた達のことが気に入ったからあなたに微笑まれたのですよ」と言いました。さらに私は彼女の弟に法輪バッジが回っているのを見せてあげました。私は彼らの事がとても羨ましいです。

 (五)

 2007年、私は電車の中で真相を話し、三退を勧めていました。すると2人の鉄道警察官によって途中で鉄道警察所まで無理やり連れて行かれました。所長は私が持っていた真相資料を私の側に置いて、写真を撮らなければならないと言ったので、私は「写真を撮らないでください、あなたには写真は撮れません」と言いました。彼は私の言うことを聞かず、やはり繰り返し何度も写真を撮っていましたが、最後に一言、「やっぱり撮れなかった」と言いました。私は彼に真相を話し、三退を勧めましたが、彼は同意せずに去って行きました。私を監視していた2人の警官は当初とても凶悪でしたが、ゆっくりと彼らに真相を話すと、彼らはみな仮名で邪党の党員組織から退くことに同意し、私に対して友好的になりました。

(六)

 次の日、地元の車が私を地元の派出所に連れて行きました。夜の当直の警官は私に手錠を掛けませんでした。しかし、所長が朝出勤した後、7、8人の警官に私を別の部屋へ連れて行くように言って、私を鉄椅子に座らせました。当時私はそのイスが手錠を掛けてから座るものだとは知りませんでした。そのため彼らはすぐに私の足に手錠を掛けました。私の手に手錠を掛けるのは簡単ではありませんでした。彼らは私の腕を力いっぱい引っ張り、手錠を掛けたちょうどその時、私は「師父にお任せします」と言うと、すぐに手を引き出すことができました。彼らはまた私の手を引っ張って手錠を掛けましたが、私はまた師父をお呼びし、手を引き出すことができました。左右の手を代わる代わる何度も引き抜くことができましたが、所長はそこでも何も言いませんでした。私は彼らの疲れ切った様子を見て、彼らと争うことに耐えられなくなり、もう手を引き抜くのをやめました。このようにすると彼らはとてもうまく事が運んだと思い、ぐっと力を入れて私を押さえ付けたので、私の身体にびりびり痺れる感じがしました。さらに私の頭に黒い布の袋をかぶせると、彼らは皆出て行きました。しばらくして、ある女性が私の前にやって来て、「なんていうことを」と一言いうと、私の手を取って、大きな声で、「これはよくありません。こんなことをすると、彼女の手はだめになってしまうわ。こんなことをしてはだめです!」と言いました。外にいる人も何も言いませんでした。私は、「あなたの心はこんなに善良なので、三退して平安を守りましょう」と言いました。彼女は少先隊に入ったことがあるだけでした。私は彼女に仮名を付けて脱退させました。私は彼女に「私は大丈夫ですから、どうぞ仕事に取り掛かってください」と言いました。彼女はここで食事を作る仕事をしていました。彼女が行った後、私は思い到りました。私の手に痛みを感じないのは、師父が私の代わりに痛みを引き受けてくださっているからです。私はこのように手錠をかけられるわけにはいきません。このようなことをすれば彼らにとっても救われるのに不利となります。私は師父に手を引き出せるようにお願いして、本当に引き出すことができました。こうして再び私に手錠をかけようとする人はいなくなりました。

 (七)

 その後、私は留置場で不当に連行され、ある日、留置場で連行されている人達が屋外に出された時、私は庭で大きな声で『論語』を暗唱しました。暗唱し終わるとすぐ、副隊長がやって来て、私に怒った様子で、「お前は自分の力を見せびらかしたいのか」と言った後、私達を部屋に戻らせ、その後、人を連れて私達のところへやって来てドアを開けると、私に出て来るように促しました。私は出て行く間もなく引きずり出され、地面に倒れるやいなや、彼は私の両足を踏みつけました。私が履いていた靴のサイズが大きすぎたため脱げてしまったので、彼は片方の靴を手に持って私の身体を叩きました。さらに私に向かって憎々し気に呟きながら3つの靴底を使って殴った後、その場を立ち去りました。私が部屋に戻ると、彼女達は私の事を強靭だと言いました。一言も声を出さず、私達のいる女子刑務所は正に私を叩きのめすようなところだったので、その過程を彼らは皆見ていました。私が彼女達に「私の歯から出血していますか? 口元は腫れていますか? 顔は赤くなっていますか?」と聞くと、彼女達は「いいえ」と言って、ただ顔に少し土が付いているからと言って拭き取ってくれました。彼女達は「あなたを殴っている時、隊長の顔が真っ赤になっていました」と私に言いました。私は彼女達には多く話しませんでした。彼が私を叩いていた時、私は法を暗唱することで叩かれるべきではないと思っていました。このようなことで、彼女達が私から真相を聞くのを怖がらせてしまえば、結果的に人を救う真相伝えに不利になってしまうからです。ですから私の念が動いたことで、痛みは彼の身体の方へ行き、これにより私の顔は少しも痛くありませんでした。痛みは全て彼のところへ行ったので、彼の顔はあの様に真っ赤になったのです。

 (八)

 2012年の夏のある晩のこと、私は町へ行った時2人の中学生に真相を話し、三退を勧めていたところ、彼らによって通報されてしまいました。私は城関派出所へ不当に連行され、鉄椅子に座らされ、1人の警官がイスの上にあった鉄の手錠を私に押し付けて掛けようとした後、手錠はパンと跳ね上がりました。彼は引き続き押し付けましたが、またパンと跳ね上がりました。彼は手錠をもう押し付けようとしませんでした。その時、私は師父が私に手錠を掛けさせないようにしていることに気付きました。彼らが去った後、1人の看守だけが残り、私は手と足を手錠から引き出すことができました。その看守は私に手錠を掛けようとはしませんでしたが、しばらくすると、また別の手錠を持って来ました。そして彼らは私の為に最小サイズの鉄椅子と取り替えました。私は看守に「私はこの通り手錠から手を引き出すことができます」と言って、私は手錠から手と足を引き出すのを彼に見せてあげました。彼らはもう私に手錠を掛けようとはしなくなりました。

 (九)

 2014年、私は不当に連行され、血液検査のために病院に無理やり連れて行かれました。私は「手錠を外してくれなければ血液検査ができないので、必ず外してください」と言いました。彼らは「手錠の鍵を持っていない」と言いましたが、「私は信じないから採血しない」と言いました。彼らはボールペンを使ってこじ開けようと思っていましたが、長い時間かけても開けることができませんでした。夕方になって、この病院は派出所と留置場から遠く離れているので、彼らは焦っていました。私もこのようにし続けるのもいいやり方ではないと思い、これは彼らに真相を伝え、三退を勧めるのにも良いことではないし、これではダメだと思っていました。しかし、この時、ガチャッとよく響く音がして、手錠が開きました。彼らは同時に思いっきり頭を上げ、異口同音に大きな声で私に聞きました。「お前は功を発したのだろう」私は、「功を発していません」と言いました。私はあなた達を救えないのではないかと心配していました。彼らはこうして喜んでいましたが、私の心は重かったのです。

 (十)

 2015年、地方裁判所が私に対し、不当に裁判を始めた時、法廷で私は両手に自分で手を引き抜いた手錠を両手に持ったまま、手錠を叩いていました。自分の弁護をし、真相を話し、彼らに三退を勧めた時、基本的に中断させられたことはありませんでした。法廷を出る職員の心は重く、適切に対処する態度の人もいます。退廷する時、ある女性職員は私の横を通り過ぎる時、足を止めて、私が手錠から手を抜いたのを見て、「これから私達も縮身術を習いますよ」と言いました。私は彼女に「あの鉄椅子の上にある手錠は私にストレスを与えると、パンと上がり、またストレスを与えると、またパンと跳ねました。これこそが縮身術ですよ」と言いました。彼女はもう何も言わずに去って行きました。

  以上は私が修煉する中で自分の身で体験したことです。さらに多くの書ききれないものがあります。修煉の中で法をよく学んでいなかったり、悟性が劣っていたため、さらに人心の執着に気付かなかったところ、修めていないところがあった為、2度も大きく転んでしまいました。しかし、師尊の慈悲なるご加護とご加持のお蔭で、早く起き上がることができました。私の心の中で師尊に対する御恩は言葉では言い表せません。最後に残された少ない修煉の中でさらに努力して三つのことをしっかり行い、さらに多くの人々を救い、師尊の慈悲なる済度に背かないようにしたいと思っています。

  個人の体験ですので、適当でないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/2/12/437065.html)
 
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