中国人民解放軍軍需大学の楊貴遠博士が受けた迫害(二)
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 【明慧日本2022年4月9日】(前文より続く)

 労働教養所の「厳しい管理チーム」

 2002年4月11日の午前8時過ぎ、私は独房から呼び出され、手錠で他人と繋がれたまま、一枚の「労働教養通知書」が渡されました。通知書には私が社会の治安を乱した罪で2年の労働教養を科され、拘禁先は広州市(花都)第一労働教養所と書かれていますが、いかなる法的な署名や手続きも行われていなかったのです。私は公安局の関係者に「私はどのように治安を乱したのでしょうか? 寝ようと思ったら不法に侵入され、自宅を荒らされて連行されました。治安を乱したのはいったい誰でしょうか?」と聞いたことがあります。彼ら自身も、法輪大法を実践したことで労働教養を強いられるのは理不尽と感じ、あえてサインなどの証拠を残してほしくないようです。その日、私は広州第一労働教養所に送られた後、すぐに法輪功学習者(以下、学習者)を迫害する特別管理チーム(2大隊)に拘禁されました。

 2大隊に入って、「厳しい管理期間」のため、他の受刑者が作業現場に行った後、私は監房で小さなプラスチックの椅子に座ることしかできず、トイレに行く時には当直の受刑者に声をかけなければならず、他の人との会話も許されませんでした。当時、私と同じように厳しい管理下に置かれていたのは、学習者の申偉さん、張健さん、呉強さんなどがいました。

 大隊長・周建宏は「私たちは強制的に転向させることをせず、他の方法はいくらでもある。簡単に理由をつけてお前の刑期を延長することができ、最長期限の3年まで延長したら、「法制学校」(実はファシズム洗脳キャンプのような所)に送り、それでも転向しなければまた労働教養所に戻らせる、このように繰り返す」と私に言いました。

 「厳しく管理」されて1カ月ほどの2002年5月初旬、誰も私を説得することができないのを見て、周建宏は、私ともう一人の学習者に手錠をかけ、学習者を拘禁する深圳の某労働教養所に車で連れて行き、そこで高学歴の洗脳専門者に洗脳してもらうよう提案しました。4、5日後、何の成果もなく帰ってきましたが、私は間もなく8大隊に送られて、重労働をさせられました。

 造花などの手芸品を生産する工場での重労働

 8大隊に着くと、私を監視する2人の監視役が配置されました。私が寝るときも、作業現場で仕事をするときも、トイレに行くときも例外がなく、2人はずっと私のそばで監視していました。普段、朝6時に起床し、食事を済ませて、7時に作業が始まり、昼1時間の休憩を挟んで、午後5時にいったん終了して、午後6時に再開して夜10時半に終業しますが、期間中トイレに行く時間はわずか5分間しかありません。

 工場では主に造花やおもちゃなどの手芸品を生産しますが、ノルマがあり、完成できなければ残業をさせられ、あるいは罵られたり殴られたりして、刑期を延長されたりしました。私は、毎月の思想報告文に彼らが求めた内容を書かなかったとして、毎月8日あるいは12日の刑期を追加されました。同じく8大隊に拘禁されている学習者・王鏗さんと陸海雲さんもこのような扱いを受けました。

 長年の重労働と栄養失調のため、私を含む多くの人が陰嚢のひどいかゆみに悩まされ、そこの皮膚が何層もはがれ落ちて真っ赤になり、触ると痛くて眠れないほどでした。このような状況は、夏の間ずっと続いていました。

 2002年9月初旬、私は口の中にひどい潰瘍ができ、喉が痛くなり、胃にガスが発生し、数時間ごとに嘔吐してしまい、食事が困難になり、ご飯を飲み込むたびに胃を刺すような痛みを感じていました。教官に医務室に連れて行かれましたが、イースト錠剤を処方してくれました。私は「私は医学者で、何が起こっているのか知っています。イースト錠剤は効くはずがありません。休ませて煉功させれば治ります」と言いましたが、応じてくれませんでした。医務室の体重計では、私の体重は40kgまで減っていると表示されていました。20日以上、歩くと浮いているように感じ、足の力が抜けていましたが、にもかかわらず普通に作業に出ていました。その後、監視役は「その時、あなたの顔色が恐ろしいほど悪くて、突然死んでしまうのではないかと心配した」と言いました。

 警官は北京で迫害手段を学び、受刑者を激励し迫害に参加させる

 2002年10月、8大隊の一階にある独房の窓とドアが突然遮られ、受刑者の間では「誰かをやっつけるためかもしれない」という噂が耳に入ったことがあります。その後、陸海雲さんは姿を消しました。また、その部屋は神秘的になり、廊下には警備係が配置され、誰かがそこで立ち止まったり、その方向を見たりすることすら許されなくなりました。しばらくして王鏗さんの姿も消えました。11月上旬のある日、朝食後すぐに「作業に行かなくていいから、荷物をまとめて部屋を変えろ」と言われました。結局、私はその暗い部屋に閉じ込められ、監視役も一緒に移りました。

 独房は完全に密閉して、暗くて湿っており、昼夜とわず電気がつき、壁には「転向は唯一の道だ!」などのスローガンが掲げられ、法輪大法創始者の写真のコピーも、赤いペンで「✗」と書いて壁に逆さまに貼り付けられていました。その環境は非常に恐ろしく、まるで文化大革命の時代に戻ったような不気味な雰囲気でした。食事は部屋の中で済ませ、トイレは他の人が出勤した後あるいは人がいない時でなければなりませんでした。彼らは法輪大法を中傷する資料を山ほど持ってきて私に読ませようとしましたが、私が読まなかったので、警官は私を監視する受刑者に読ませていました。

 5日後、私は特別管理チームの2大隊に戻され、いわゆる「談話室」に入れられました。談話室は3階の建物の1階にある大きな教室を改造したもので、コンクリートの壁で4つか5つの小部屋に分けられ、それぞれの部屋に鉄の扉とのぞき穴(外からしか見えない)がついていました。当時、談話室に拘禁されている学習者は、陳瑞昌さん、林天賜さんなどがいました。

 後で知ったのですが、2002年9月から10月にかけて、労働教養所は警官らを特別に北京に派遣し、迫害の手段を学んできたそうです。勉強に参加した警官は、2大隊長・周建宏、副隊長・何桂朝、教官・畢徳軍、黎偉成などです。2002年10月、労働教養所の所長・周洋波らは、他の労働教養所から悪辣な受刑者を選び、彼らの労働を免除し、奨励(1人を転向させると20日間を減免する)を与え、専ら学習者を迫害させました。直接拷問を行った受刑者は、王鋒、崔玉財、蒋勇、夏建華などがいて、用いる手段が極めて残酷です。

 丸ごとの人間が球状に縛り付けられる

 数日後の夕方、王鋒、崔玉財は「心理医師に連れて行く」と言い、私を僻地にある監禁室に連れて行きましたが、そこには蒋勇、夏建華がすでに待っていました。 私が入ると、彼らは有無を言わさず私を地面に押さえつけ、数メートルの布ロープで、私の両手の手首や脇の下、両足をきつく締め付け、両手を後ろに反らして、両足を結跏趺坐の状態にさせたまま、全身を丸めさせて球状にきつく縛り付けました。私は頭を上げることも、背筋を伸ばすことも、座ることも、横になることもできず、全身に激痛が走り、呼吸困難な状態に陥りました。

 縛られると、血が流れず腫れて、しびれ、息苦しく非常に苦痛な状況下で、 30分ほどして、私の両手足が冷たくなったところで、彼らは布ロープをほどき始めました。その時の痛みも極めて激しいものであります。しばらくして再び縛り付け始め、崔玉財は縛り付けながら、法輪功創始者の写真を私の肛門と陰部に詰め込み、耐え難い汚い言葉を言い続け、私に肉体的にも精神的にも大きな苦痛を与えました。このような拷問の下で、私は耐えきれなくなり表面上では「転向」せざるを得ませんでした。

 警官は何度も学習者に悪事を働かせる

 一度屈服すると、警官は私に対して法輪大法の創始者を罵り、法輪大法の創始者の写真を破ったり、燃やしたりする悪事を何度も強要し、その時の写真を撮りました。それから一晩中、私に「三書」を書かせることを強制しました。私は頭が真っ白になり、書けないため、見本を持ってきて写すことを強要させられました。「転向の成果」を「強固」させるために、彼らは私を「談話室」に1カ月以上監禁し続け、毎日法輪大法を中傷する文章を写させ、毎晩「思想報告書」の提出を強要しました。その時から解放される(2003年7月15日)まで、私は「思想報告書」を書き続けていました。また、法輪功を誹謗中傷する「摘発書」を書くように言われましたが、決められた時間内に書き上げなければならず、長さは6000字以上、内容は絶対的に「深い」ものでなければ書き直さなければならないことになりました。「摘発書」を書いた後、教官は朱肉を持ってきて、「私が書いたものはすべて事実であり、公表に同意します」という内容の「声明文」を強要しました。署名と拇印の後、続いて「摘発大会」に参加して声明を読み上げるよう求められ、それをビデオに撮り、最終的にVCDに仕上げました。

 彼らは、「転向」した学習者に対して特別に関心を寄せ、落ち込んでいる学習者を見かけたら、「偽転向ではないか」と疑いながらすぐに話しかけ、あるいは「談話室」に送り繰り返し迫害をするのです。私たちはまた、教室で中共を賛美する歌を歌うことを要求され、新年や節句の時期には警官を賛える演劇や歌を歌わなればなりませんでした。事情を知らない人は外から迫害を知ることができず、他の受刑者も私たちが受けた「優遇」に嫉妬し、なぜ学習者がみな「転向」したくないのか理解できないようです。

 では、「転向」とは一体何なのか、その本質とは何なのかについて、徹底的に分析してみましょう。

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2004/8/11/81490.html)
 
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