師を信じて法を信じれば乗り越えられない関はない
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 【明慧日本2022年5月5日】2014年、孫が生まれました。その時、義父は寝たきり状態で、夫はリストラされ、息子は急に腰痛を起こして足も痛み、働けなくなりました。嫁は産休で家にいました。6人家族を見て心配した夫が泣きました。 私は夫に「心配しないで、心配しても無駄です。家には小麦も漬物もあるから、餓死するわけがない」と慰めました。 これはすべて試練なのだと思い、師父の「忍び難がたきは忍びうる。行ない難きも行ないうる」[1]という言葉を思い出し、心を決めて、家族に「今の窮境は一時的なもので、天は人を絶やす道はない」と話しました。

 この間、地元の警察署から警官6、7人が家にやってきて、嫌がらせをしたり、不当に私を連行しようとしましたが、夫は「なぜ連れ出すんだ」、 「妻は義理の両親や子供たちによくしてくれて、彼女のことを近所に聞いてみてほしい、大法を修めていなければ今のようにできるのか?」と言いました。 警官は夫に「法輪功を習っているのか?」と聞き返しました。 夫は「我が家は全員、習っている」と答えました。すると、警官は夫を引っ張り、車まで連れて行きました。この時、私は「法輪大法は素晴らしい、真善忍は素晴らしい!」、「家に泥棒が入った! ヤクザがいるんだ!」と叫びました。

 5人の警官がやってきて、私を外へ引きずり出そうとしましたが、私を動かすことはできませんでした。 警官が電話をかけると、さらに応援の警官3人がやってきて、8人で私を不当に連行して、拘置所に連れて行きました。 車中では孫、孫娘、ベッドの上で動けない義父、リストラされた夫、腰痛と足の痛みで働けない息子、産休中の嫁など何もかもを考えないように、すべての情と心配事を放下すると心に決めました。

 拘置所に着いてからも私は、毎日煉功し続けました。もちろん警官は煉功をさせてはくれません。 「私は修煉しており、修煉者はどこにいても煉功するものです」と教えました。「監視カメラがどこにつながっているか知ってるか? 映像は済南まで行くんだよ 」と彼らは私を脅かします。私は「この電線は短いですね、私の師父が法輪大法を広めており、世界各地に法を広めているのです!」と返しました。 ある日、警官に「囚人に法輪功の真相を言ったら、明日から食事ができなくなるぞ」と脅され、翌日から私は本当に食事を摂らないことにしました。すると警官は逆に怯えて、それ以上私を脅すことをしなくなりました。

 自分自身を振り返り、どこが法に符合していないのか? 旧勢力に隙に乗じられ、このような迫害を受けるようになったのか? 普段、家事に追われ、法の勉強と煉功が追いつかず、心性を保てず、夫を恨み、苛立つことが多く、面子を保つことが好きで、家では主導権を握り、女らしくなかったなど、いろいろな人心が見つかり、すべて法にそぐわず、いつも情に左右されていました。 情とは、人をこの世に縛り付ける縄に過ぎないのです。そんなものが私には必要なのでしょうか? 私はこのように師父の法に則って考えると、身体に正のエネルギーが増えてきました。

 家に帰ると夫は不機嫌でした。嫁は口内炎で、息子も「もう同修に合わせない(我が家は集団学法する場所)」と言い、夫は「平和な暮らしをさせてくれないのか」と私を叱咤しました。 私は「60歳を過ぎてまだ嘘をついていますか、 私は煩わしい生き方をしているのでしょうか? 大法の修煉がなければ、私はこのように健康でいられたのでしょうか? 良心の呵責はないのですか?」と夫を叱りました。また息子に「あなたはお母さんの家に居候しているのだから、お母さんを脅す権利があるのですか? これはあなたの仕事ですか? 私は外で迫害されているのに、家ではあなたが母さんを脅迫するのですか? 善と悪が報われるのは当然のことであり、報われないのはまだその時期ではないからです」と教えました。

 私は「何も心配しないで、すべては一時的なもので、『法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい』と唱えれば、どんなことも乗り越えられる」と家族を励ましたのです。そして、息子に「偶然なことはないから、工場の利益を貪ったり、人から賄賂の贈答品を受け取ったことがないかを考えてみたら? あなたは修煉者ではないけれど、この理屈は誰にとっても通用することなのよ」と話し、息子は「母さん、この数年の自分を振り返って考えてみたんだ。子供の出産保険金の問題で、自分は目先の利益に捉われていたのだと思うんだ。 ここで出産すると保険会社から1万元以上の払い戻しがあるが、自宅だと6千元だけだ」。私は「見てごらん、この1万元のために苦労したのでは?」と言いました。

 私は物事の成り行きに任せて、全てを師父に託し、自分の心性を守らなければならないと思いました。夫は心配で涙を流していましたが、私はただ動揺せず、焦らず、一日一日を過ごしていました。 そして、師父に誓いました「私はこの関を乗り越えなければなりません」。 しばらくすると、息子の腰は治り、近所の人たちが夫を仕事に誘うようになりました。

 瞬く間に夫が逝ってから3年が経ちました。孫が小学生になって学校に通い始めた頃になっても、まだ心の中に空虚さと寂しさを感じていました。 私は息子に「今は子どもたちが2人とも学校に通っていて、あなたの負担は軽くないから、もう私にお金をくれなくていいよ」と言いました。私はそう言ったものの、いざ息子がお金を減らした時に、私の心は少しアンバランスになり、私はこの家の全員にすべてを捧げた自分の一生を思うと、不平不満と失望が生じました。またある日、嫁が息子に「お母さんを同居させれば、余計なお金を払わなくて済むのよ」と言っていたのが聞こえました。それを聞いて「この家は集団学法が行われる場所。息子の家に行けば、ここの同修は明慧週刊誌をもらえなくなり、学法する場所がなくなり、私にとっても学法する環境がなくなってしまう」と考えました。

 孫娘が 「おばあちゃん、家に来て一緒に住もう」と言ってきました。 私は孫娘に「お父さんとお母さんはお金を稼ぐのが大変なのに、おばあちゃんが行ったらもっと負担が増える。お父さんとお母さんの負担を減らすために、おばあちゃんはお金を稼ぐ方法を考えなければいけないの」と言うと、 孫娘は「来ないの?」と泣きました。「私も仕事に行きたくないの。もうすぐ70歳になるし、まだあなたの親には内緒よ。でも仕事をする計画を立ててるの、全て自然に任せましょう」と孫娘に言いました。

 夕方、師父に線香をあげた時に「師父、仕事に行くことが衆生を救うことの妨げになるのは分かっていますが、このままでは生活に支障をきたしてしまいます。これも私が一つの経験をしなければならない事かもしれません」と師父にお話ししました。自分の意向を明確にした後、年が明けて1カ月後に3箇所から仕事の依頼がきました。煉功と発正念に影響がないように、遠くには行けません。夫が昔働いていた大工の店にも行きたくありませんでした。村の炊事の仕事は昼の一食だけで、家からも近いので行くか否かは悩みました。この間2回ほど転んだのですが、どう悟ればよいのかはわかりませんでした。

 1月の16日は甥の結婚式なので、息子が帰ってきました。 息子は「何日か俺のところに泊まればいい」と私を誘いました。私は 「いいえ、17日は仕事なの 」と断ってしまいました。 息子は「納得がいかないよ。体調があまりよくないのに、仕事はできるのか? 何がしたいんだ?」、息子は泣きました。私は息子に「あなたの負担を軽減するために、まず試しにやってみて、必ずしも適応できるとは限らないからしばらくやってみることにしたわ。17日はどうしても出勤するようにと言われたの」と話しました。

 職場は、実に心性を練磨する場所なのです。以前から、社長や社長の奥さんと良い関係を築いてきました。仕事の初日に、奥さんから厨房の掃除を頼まれました。丁度その日に給料と仕事の範囲について社長と合意したばかりでした。私の仕事は職員に昼の一食分だけ(彼の家族ではない)の支度をすることです。 仕事を始めるにつれて、心性の試練もやってきます。社長の息子さんが、私が包んだ饅頭がとても美味しかった、五香粉を使った饅頭は初めて食べたと言ってくれたのです。 奥さんはそれを聞き不機嫌な顔をして、私に野菜をこのように切って、あのように切って、WeChatで料理の仕方を見させられました。ガスがなくなり、私は奥さんにガスを変える人を探すようにと頼みました。奥さんは私に自分で変えるべきだと言い、助けてくれませんでした。また、私に下ごしらえするようにと豚の腸を買ってきました。私は手が回らないから手伝っていただきたいと彼女にお願いしました。しかし、彼女はそこで携帯をいじっていて暇がないと断られました。仕方なく門番に手を借りて対処しました。門番の方にお茶を2杯入れました。翌日には、私が使った急須も茶碗もすべてなくなっていました。

 ある日、社長は私に言いました。これからの料理では、ねぎ、生姜、肉は必要ありません。私は「入れないなら、入れなければいいわ」と心の中で思いました。「それでは、今日は魚を焼くのにねぎも肉もいらないんですか?」と社長に確認すると、社長は奥さんを見て「肉がないと魚は焼けないよ」と言いました。 すると、社長の奥さんが一塊の肉を手に取り、私に投げつけてきました。その表情が実に不愉快だったのです。

 この間、私は自分が修煉者であることを自覚し、忍耐強く心を修めていかなければならないことだけを考えました。 私は心の底から内に向けて探し、常に楽観的な姿勢でいること、そして笑うことを自分に言い聞かせていました。 私は師父に「師父、どうして笑えないのですか?」と尋ねました。修煉者はいかなることに遭遇しても決して偶然なことはありません。そして内に向けて探してみると、私には嫉妬心、顕示心、自我を実証する心、闘争心などがあり、一つの人心を見つけては掘り起こし、それを取り除いてきました。

 自分の心を放下して、私は私利私欲のために勝手な雑念を取り除き、大法に同化したいです。 私には師がおられ、法があるから、乗り越えられない関難はないのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/4/17/441374.html)
 
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