明慧法会|技術サービスを行う過程で心性を修める(二)
■ 印刷版
 

文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2022年5月12日】(前文に続く)

 またある時、雨が降っていましたが、外に出たらあまり降っていなかったのでレインコートを着て自転車に乗って出発しました。途中から強い風を伴った大雨が降り出し、胸から下の服はすべて雨に濡れてしまいました。同僚の家に行ってスカートの下の部分の水を絞り二階に上がりました。同修の家に着くと、同修は私がぬれねずみの状態を見て着替え用に同修の服を探してくれました。しかし私は着替えず、同修に迷惑をかけないように、自分の体温に頼り、しばらくすると乾いてしまいました。

 同修の家への移動はほとんど自転車で、長い時は片道1時間かけて移動しました。法を暗唱しながら、いつの間にか着いてしまい、遠く感じませんでした。法を暗唱しない場合は、問題に遭遇した時にどうするか考えるわけですが、当然、問題解決のためにまず何をするか、次に何をするかと、順序よく列挙していきました。心が法に則っている時、自分の思考がとても速いと感じました。今まで遭遇したことのない問題に遭遇することもありますが、その時は何も考えることなく、自然にすっと解決方法を見つけることができました。いつも「手を下すやいなやたちまち直り」ました。そのたびに、私は師父に心の中で感謝申しました! 師父は私ができないのをご覧になり、手伝ってくださり、すぐに直し方がわかりました。

 パソコンのシステムを導入する際、さまざまな種類のパソコンがあるため、それまで持っていたわずかな知識では足りず、見たこともないようなトラブルに見舞われることが多々ありましたが、問題はたいてい解決できるもので、その時点で解決できない場合は天地行論壇で同修に助けを求めることで解決できる場合もありました。

 自分には能力があると感じることもあり、新しい問題を解決するたびに少し満足し、歓喜心が生じるようになりました。同修の何人かが「あなたに出会えてよかった、そうでなければパソコンやプリンターの調子が悪くなっていたかもしれません」と言いました。自分の心の中で「あなたたちは技術担当の同修を大切にしなければならない!」と思い、自分のことをすごいと思いました。自分の技量を優先することもあり、師父や大法のことを考えないこともありました。

 最近、同修が中古で比較的高いコンフィギュレーション(訳注:設定)のノートパソコンを購入し、システムのインストールを依頼されました。フルディスクが暗号化されたシステムのインストールで簡単に導入できると思っていましたが、いくつかの方法を考え、2日間作業した結果、半分のインストールしかできず、うまくいきませんでした。朝の静功の後、ふと「どうして師父にお願いするのを忘れていたのか?」と思いました。そこで私は合掌し、どうしたらいいか師父に教えを請いました。師父に教えていただいたという感覚はなかったのですが、パソコンの電源を入れた後、携帯電話の翻訳ソフトを使って英語で書かれたものに何と書かれているのかを見てみようと思いました。すると、解決策がわかり、うまくいきました。この時、目に涙を浮かべ、師父が助けてくださったことを知り、心の中でこの上なく感謝しました。その後、いくつかの紆余曲折はあったものの、最終的にインストールは成功しました。

 2年前、同修(以下、Aさん)からデスクトップパソコンへのシステムインストールを依頼され、Aさんはパソコンを電動自転車で私の家まで運んで来ました。システムをインストールした後、翌日の昼に届けることで私たちは合意しました。ところが翌日の昼、Aさんの家に行ってみると誰もいませんでした。その時、午後から学法しなければならなかったので、私は学法グループのために作った資料を持ったままでした。背中にかばんを背負い、片手に資料を詰め込んだかばん、片手にパソコンを持って、しばらくドアをノックしましたが、ノックしても開かず、心が憂鬱になりました。もしかしたらAさんが緊急で出かけたのであれば、途中で会うかもしれないと思いながら、バッグを持って歩いて帰るしかありませんでした。しかし途中でAさんを見かけることもなく、腹が立って「本人が家で待たなくても、家族を家で待たせるべきだ!」と思いました。

 一旦恨みが出ると「これは恨みの心ではないか? すぐにこの恨みの心をつかみ、打ち砕かなければ!」と警戒しました。その途端気持ちが楽になり、憂鬱な物質がなくなり、体が軽くなりました。Aさんは孫を病院に送っていたことを私は後で知り、Aさんはしばらくシステムのインストールのことを忘れており、システムのインストールのことを思い出した時、家族に先に帰ってもらったのですが、間に合わなかったそうです。

 Aさんに対する不満は1日や2日のことではなく、いつも意見の相違があり、心にわだかまりがありました。今回の事で、Aさんに対する恨みはだいぶ解消されましたが、全部が全部解消されたわけではありません。後日また同じようなことが起こりそうになりました。事情はこのようなことでした。

 私の知らない同修の中に、脳血栓で半身不随になった人がいました。Aさんは私に、週に一度その半身不随になった人のところに行って一緒に法を勉強するよう持ちかけ、さらに協調人がいくつかのグループの同修を手配して、ほぼ毎日、半身不随になった同修のところに行って法を勉強していました。半年以上経過しても、その同修の状態に大きな改善は見られませんでした。多くの同修が関わっていたため、中にはこの件を問題視する人もおり、私はもう行きたくないと思い、しばらく行きませんでした。

 ある時、Aさんが、私がAさんの家に来て相談にのってほしい、と言いました。Aさんの家に行く途中、よくない念がどんどん湧いてきて「彼女が私をあの病業の同修の家に行かせなければならないというなら、どのようにすればいいのか……」と考え、抑えきれなくなりました。私はAさんに対して忍耐の限界に達していました。Aさんの家に着くと、Aさんはあまり過激なことは言わず「半身不随になった同修の家に行って学法するのは自発的に行くものであり、行くか行かないかは自分の状況次第であり、正しくも悪くもありません」と言いました。

 この時、心に詰まっていた物質がAさんの慈悲によってすっかり溶けてしまい、すぐにAさんに対する恨みが消えました。私は「この時、彼女が一言でも強硬な言葉を発したら、私は爆発していたかもしれない」とわかりました。この二つの出来事で、師父はAさんへの恨みを完全に消し去ってくださり、私の心のわだかまりは完全になくなりました。それ以来、私たちは非常によく協力し合い、以前のような目に見えない心の隔たりはなくなりました。まさに師父が説かれた「慈悲は天地の春を溶かし」[2]の通りでした。

 真相資料を編集する中で心性を向上させる

 QRコードが普及したのはここ数年のことでした。数年前、明慧ネットではすでにできあがっているQRコードカードをダウンロードすることはできませんでした。私たち数人の同修がプロジェクトチームを立ち上げ、自分たちのノウハウを活かしてQRコードを使って真相を伝えることにし、QRコードの有効性を検証する人、協調をとる人、そして私がQRコードのカードを編集しました。

 私たちのグループの技術担当の同修が提供するQRコードは、明慧ネット、大紀元の脱党サイト、動態ネットなどから直接アクセスすることが可能でした。狭い範囲で配布されるため、一つ一つのQRコードの有効期限は明慧ネットで公開されているQRコードよりもはるかに長く、1~2年経過したQRコードでもまだ使用されているものがありました。面と向かって人々にカードを渡した同修からのフィードバックはなかなかよいものでした。

 以下に、QRコードカードのデザイン・編集過程での体験をお話しします。人によって美意識が違うためカードに求めるものも違いました。カードをデザインしたら、まずウェブサイト内のメールボックスに送り、同修からコメントをもらい、意見があればそれがなくなるまで何度も修正し、最終的に印刷用として仕上げました。

 この過程も心を修める過程でした。長い時間をかけ自分では納得のいくデザインであっても、同修に意見を求めることもありました。同修の提案がとてもよくて喜んで修正することもあるし、自分の考えと違う要望であっても、やはり最前線で直接資料を配り人々のニーズをよく理解している同修の要望に応えようと努力しました。時には、新しいものをデザインするのと同じくらい、修正に時間がかかることもありました。名刺サイズに、QRコード画像を二個、タイトルの文字、説明テキスト、イラストを配置しなければならず、その配置が難しく、小さな修正をしようとすると大きく修正をしなければならず、本当に「ごく小さな事柄も全局に影響を及ぼす」のでした。

 ある時、真相シール用のラベルのデザインを依頼され、A4用紙に8枚、10枚、12枚とラベルが貼られている既製品の粘着ラベルを買ってきました。そのデザインを同修に送ったのですが、私がデザインのポイントだと思ったところを却下され、その時心の中は本当に違和感を感じました。少し不愉快を覚えましたが、私は修煉者なので、自我を放下し、全体と協調し、同修の求めを最優先しなければなりませんでした。

 師父は「あなたに良い方法があり、それを考え出したので、あなたは法に対して確かに責任を持っています。しかし、あなたの意見、方法が採用されるかどうかは重要ではありません。他の人の方法を用いても同じ効果に達し、自分の方法に執着せず、かえって他の人の方法に同意し、あなたは自分の方法を言っても言わなくても、神にはそれが見えるのです。『ほら、彼には執着の心がなく、こんなに度量があって寛容なのです』という具合です。神は何を見るのでしょうか? まさにこれではありませんか?」[3]、「しかし、真の向上は放棄することであって、得ることではありません」[3]と説かれました。

 そこで同修からの要望に応じて、徹底的な見直しを行い、最終的に同修の満足を得ることができました。自我を放下するというのは簡単なことではなく、プロジェクトの中では常に自我を放下しなければならないことがありました。不注意でこの自我が顕在化し、時には非常に隠蔽された状態で、自我が気づかないうちにすり抜けてしまうことがありました。

 ある時、同修から「明慧ネットで公開されているシールに、私たちの地域のQRコードを貼りつけてほしい」と頼まれたことがありました。私はQRコードを貼りつけた後、同修に送りました。送ったQRコードを見た同修は、いくつかの調整を除いて基本的に満足していたようでした。私が何度も送らなくてもいいように、同修が自分で調整するとのことでした。しかしその後、やってみたが自分では調整できないから私にやってほしい、と言われました。その時私には「結局やり方がわからないではないか!」という念が現れました。私の印象では、この同修はすべての面で非常に強く、多くの仕事を抱え、少し押しが強いところがありました。最初にこの念が現れた時は、私はあまり注意しませんでした。しかしその後、同じようなことが起き、この念が再び現れました。この時、私は「この心は何か? ああ、嫉妬心だ! 私はあなたではなく、他人の不幸を願ったりしない。嫉妬心は最も有害な心であり、気が付いたら必ず取り除かなければならない!」と警戒しました。

 以上が私の20年の修煉の中での体験のほんの一部であり、技術面の仕事を行っていますが、大法の要求には遠く及ばず、面と向かって真相を伝えるという点ではまだまだであり、何かをすると学法や煉功の時間が削られてしまうこともあります。これも今後、私が突破し改善していかなければならない点です。

 師父がいつも守ってくださり感謝します!

 妥当でないところがありましたら、みなさんのご指摘をお願いします。

 (完)

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『導航』「ワシントンDC国際法会での説法」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「法は乾坤を正す」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」

 (明慧ネット第18回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/11/15/433167.html)
 
関連文章