いくつかの惑わされやすい口癖を解き明かす
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年6月6日】同修から次のような口癖をよく耳にします。「私は修煉の仕方がわからない」とか、「私にはそんな心はない」とか、あるいは「〇〇さんは修煉がよくできているのに、なぜこうなったのだろう?」等々です。最初は、私もその言葉に従って、同修が無辜であり、純粋だと思い、あるいは「〇〇さんはいったいどうしたのだろうか」と考えていました。最近、多く法を学び、暗記するようになってから、これらの言葉の中には自らを欺き、他人を欺瞞する良くない要素があることを見抜くことができました。

 一、「私は修煉の仕方がわからない」

 心性の交流や、執着心を取り除くことに言及するたび、いつも「私は修煉の仕方がわからない」と淡々と言う同修がいます。最初は、「同修が修煉したくないのではなく、修煉の仕方がわからないのだ。同修に罪はない」と思っていたので、それ以上言いませんでした。この言葉は自分を欺き、自分を麻痺させ、自ら精進することができない非常に惑わされやすい言葉であることに、今になって気づくことができました。

 昔は、「何かを行う時、どう声をかけるか」、「そのことに対して相応の素質を備えることが必要である」とされていました。軍人には軍人にふさわしい素質があり、学生には学生にふさわしい素質があるべきで、そして修煉者には修煉者の素質が必要なのです。軍隊のラッパが鳴り戦場に行くとき、スコップを担いで駆けつけるのは、良いでしょうか。学校に行くとき、ゲーム機を背負っていくことは、許されるのでしょうか。あなたが「私は知らなかった」と言うならば、誰が信じてくれるのでしょうか。修煉は即ち人間の執着心を取り除くことです。あなたは怒りで頭が冷静でいられず、子供のことが心配で仕方がないようで、気になる利益に翻弄され落ち着くことができなくなり、これらの人心が目の前にあるのに、あなたは「これが執着心だなんて、知らなかった。それを取り除くべきであることも知らなかった」と言うかもしれませんが、ありえるでしょうか。捨てたくないのは明らかですが、「私は修煉の仕方がわからない」と言ってごまかしているのです。

 大法の法理は明白でわかりやすく、深く掘り下げて研究したりする必要はありません。簡単な道理がそこにあるので、それに従って実行すればいいのです。「わからない」と言うのは、知らないふりをしているのではないでしょうか。従って、修煉の仕方がわからないのではなく、修煉したくないのです! まして、執着心はあなたの病業や、迫害される、修煉の失敗により成就できないことをもたらし、あなたを壊滅させるものです。あなたはなぜそれを意識せず、それらと「仲良く」できるのでしょうか。

 大法弟子の中には、常人の知識がなくても、ひたすら師父の言われたことを実行するだけで、善の心で人に接するようにと言われたら、誰に対しても優しくし、利益に執着すべきではないと言われたら、利益の前で本当に動じない、よくできている同修がたくさんいます。人心に向き合い、それを取り除くことは修煉であり、努力してそれを取り除こうとすることは、正念が強いということであり、緩めずにそれを取り除き続けることが精進していることなのです。これは、修煉者としてあるべき基本的な素質ではないでしょうか。

 「私は修煉の仕方がわからない」、それとも「私は修煉したくない」なのでしょうか。千万年も待ち望んでいたのに、修煉したくないと思うのでしょうか? これは自分の考えでしょうか? 修煉させないのは誰でしょうか? 何を言っても、これらの人心を取り除かなければならないと思うはずです。「あなたのどの執着も、あなたの修煉を台無しにしてしまいます」[1]。それでは何を待っているのですか? 直ちに取り除きます!

 二、「私にはそんな心はない」

 多くの仕事を行い、あちこち走り回っている同修がいます。異性の同修に接するとき、不適切な言動で軽率で、気軽にはしゃいだり、じっと見つめたり、疲れたと言って気遣いもなく、異性の家のベッドで少し寝たりして、家族以上にくつろいでいる様子でした。誰かに指摘されると、「私はそんな心は持っていない」と言うのです。

 昔は、「男と女は直接触れてはならない」と言っていました。また、昔は男女の間は非常に謹厳実直であったという内容の説法もあり、これは神が人間に与えた基準です。夫婦であっても互いに尊重し合うことが、神が人間に与えた正統な基準でした。これは、いかなる環境でも、主意識が自分を支配し理知な状態を保ち、他の生命に簡単に支配されないように、そして自分が自分を本当にコントロールできるようにするためだと私は理解しています。

 神は純粋で、色心がなく、彼らの言動は非常に品位があり、端正で美しく、それこそが執着心のない状態であることがわかります。本当にその心がなければ、そのような行動はとらないはずです。旧宇宙の一部の神は、あなたの正しくない振る舞いを見ると、それを拡大して強化するので、あなたはますます自分を放任してしまい、問題が起こりやすくなります。

 師父は、「特に形成された観念、形成された思考様式によって、なかなか無意識のうちに表れた人心に気づくことができません。気づくことができなければ、どのように放下するのでしょうか? 特に中国という環境で、邪党は中国の伝統文化を打ち壊し、邪党のもの、いわゆる党文化を作りました。党文化で形成された思考様式をもって宇宙の真理を認識するのは困難なことであり、場合によっては、一部の良くない考えと行為は世間の普遍的価値観と抵触していると認識することさえできません。多くの良くない考えに気づくことができないなら、どうしたらよいのでしょうか? 大法に従って行動するしかありません」[2]と説かれています。

 党文化の観念で見ると、戒律を犯していなければ大丈夫で、良いほうです。 伝統文化で量れば、まだ良いのでしょうか? 伝統文化の話になると、これらの同修たちはたいてい、「それは常人のものです。レベルが低すぎて、私は大法に従って行っているのです」と抵抗します。伝統文化に反感を持っている人たちは皆、頭の中に党文化の要素があるからです。それでは伝統文化について、どのように理解すべきなのでしょうか。

 師父は、「神は法を正すときに中国の文化を用いたいと思っており、神が築いたものでもあり、本来は半分、神の文化だったのです。とても素晴らしいものが含まれていて、五千年の文明の中の輝き、数え切れないほどの歴史物語があり、すべて神伝文化の見所であり、太古の時代の人間を現代の思考様式を持つ人間に作りあげる過程で築かれた文化なのです。では、このような文化を披露して、皆さん考えてください、面白くないでしょうか? 人を惹きつけるのではありませんか? 人気があるのではありませんか? 」[3]と説かれています。

 もう一つの角度から見れば、今日の大法弟子の修煉は、ただ個人の圓満のためではありません。私たちは先駆者であり、未来の人類のために道を開き、未来の異なる次元、異なる境地、異なる大穹の無量の衆生のために参照を残しているのです。将来の人々は「当時の大法弟子たちはこのように行ったのだ」と言うでしょう。そうなると、「私にはそんな心はない」と言うだけで、満足するわけにはいかないのです。大法によって作られた生命は他人のためのものであり、動じた一念でも他人のことを考えなければならないので、私たちは法を守り、衆生を思い、非常に正しく行わなければなりません。

 三、「〇〇さんは修煉がよくできているのに、なぜこうなったのだろう?」

 このような話を聞くと、つい〇〇さんのことを考えてしまいますが、実は、これを話した本人自身にこそ問題があります。なぜなら、彼は大法の修煉形式を理解しておらず、法理も明確でないから、このように言っているわけです。

 大法の修煉においては、「功績の上にあぐらをかく」ようなことではではありません。どんなに修煉ができても、基準に達したらすぐに隔離され、残っているのはやはり基準に達していない部分です。良い状態を維持するためには、法を学び、向上し続ける必要があります。修煉や学法について行くことが出来なければ、妨害されやすく、問題が生じてしまいます。

 もし自分は法理がはっきり分からなければ、その同修が人心を取り除いておらず、あるいは学法について行けないことが原因で問題が生じることを理解できないため、「修煉がよくできているのに、意外にも問題が生じた」と考えてしまうと、自分が大法に対して動揺して信じなくなります。このことは、修煉の道において自分がどのように認識すべきかという問題であり、他人の修煉状態を研究する必要はありません。その上、あなたが法理を理解していないため、邪悪はその同修への迫害を激化させ、目的はあなたを動揺させ引っ張り落とし、修煉の環境をさらに破壊しようとしているからです。

 ですから、このような疑問があったら、すぐに自分の不安、恐怖、法に対する不信などの人心を探して、自分の法理が明確になれば、自分の空間場がきれいで邪魔されなくなり、全体の環境を強力に安定させ、魔難にある同修を助けることができます。

 四、「私は師と法を信じていなかったら、今日まで歩めるでしょうか」

 同修が病業や魔難の中にいる時、他の人が師と法を信じない考えがあるかどうかを指摘すると、同修はすぐに「私は師と法を信じていなかったら、今日まで歩めたでしょうか」と言い返します。

 この言葉は他人を黙らせ、自分の内に深く隠されている執着心を見つけなくなります。同修は、修煉を諦めないことを師と法を信じていると受け止めますが、実はこの二つは違うものです。

 大法の法理はすべての面を含んでいます。修煉し続けたからといって、師父の教えられた法理をすべて理解し受け入れ、無条件に従うことができるわけではありません。これらの問題について、師父はその本質に触れたことがありますが、それは、話している本人も自覚していない根深い執着心なのです。しかし、それは確かに執着であり、人の修煉と向上を阻んでいます。

 今まで、商売や人事をやっていた人は、計算したり他人のことを推測したりすることに慣れていて、非常に狡猾になっていました。修煉してからも「計算したり、考えたりしなければ、損をするのではないか」という考えは変わっていません。実は、「自分のものなら、無くなることはないし」[4]という教えを信じず、師父が見守って下さっていることを信じず、安心できないから、自分を守らなければならないと思っているのです。しかし、彼は大法がよいものであると信じ、積極的に真相を伝えていますが、師と法を信じているわけではありません。

 このように正しいように見えても実は正しくない言葉はたくさんあります。私たちは、衆生をよりよく救うために、惑わされないように、心を静めて法を学び、多く法を学び、心性を修め、はじめてその背後に隠れている執着を見つけ、これらの妨害を取り除くことができるのです。

 適切ではないところがあればご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「二十年説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」
 [4] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/5/27/438627.html)
 
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