文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年6月14日】法輪大法が世に伝え出されて30周年を迎えましたが、私も大法の修煉に入って28年目になりました。28年前、私は師父が中国で開催された3期の功法伝授クラスと2回の講演会に参加し、現場で師父の説法を聴き、大法の広大な恩恵を浴びて、とても幸運な生命になりました。
大法が世界に広まるに伴い、幾度も風雨を経験しました。特に、二十数年にわたる当局による大法弟子への迫害の中で、私は多くの苦難を経て今日まで歩んできました。時間はこの世間のすべてをすり減らすことができますが、心に根ざした大法は歳月とともに変わることなく、それは鍛えられた金剛のように奥深くまで植え付けられ、真・善・忍の真理の輝きがますます美しくなり、中共の虚言と殺戮でも破壊できない大法の威力は、創世主の恩賜です。
一、法を得るまでの不思議な体験
私は中共政権が確立された後の1960年代に生まれました。家族の上の世代は、いわゆる「歴史問題」で中共に投獄された者がおり、「文化大革命」の運動の中で批判されて自殺した者もいました。私の両親は田舎に行かざるを得なくなり、 大人たちの精神的抑圧と不安定の生活の中で、私はだんだんと大きく成長しましたが、身体が弱く、内向的な性格が形成されました。
14~15歳の頃、私は重病を患いました。私は当時、田舎で母親と一緒に暮らしていました。農村の学校では、「働きながら勉学する」という政策が実行され、小中学校の生徒も畑作業に参加することが義務づけられていました。草を刈ったり、土を運んだりすることもあれば、水草を取って飼料を作ることもありました。当時、青年期に入って生理が来ましたが、皆と同じように水の中で水草を取っていました。その時から、毎回の生理が1カ月ほど続いたのですが、その後、出血が止まらなくなり、薬や注射も効かず、最後に学校を休まざるを得なくなりました。
どのくらい時間が過ぎ去ったか忘れましたが、出血して全身に力が入らなくなり、顔色も真っ青になりました。母は焦ってあちこちに治療を求め、私は匂いを嗅ぐだけで吐きたくなるほど薬を飲みまくりました。たくさん注射もしましたが、それでも治りませんでした。ある日、母はある診療所の老中医が私の病気を治してくれると聞いて、すぐに人にお願いして車で私を運んで行きました。私が行った時には、老中医は不在でした。その瞬間、母は椅子の上に泣き崩れました。母があんなに泣くのを見たのは初めてでした。私は母の服を掴み、診療所に来ている患者さんたちも母を慰めてくれました。無力感の母は「どうしたらいいの、うちの子が死んでしまうのよ」と泣きながら言いました。
その日、母は診療所で処方された高麗人参の栄養剤を手にして、診療所を後にしました。街で、母は目に涙を浮かべながら、「何か欲しいものはある? 買ってあげるよ」と私に聞きました。当時、両親の収入が少なく、子供と老人も養わなければならないので、経済状況はとても厳しかったのです。母にそう言われた時は本当に死ぬかもしれないと思いましたが、それでもなぜか「本が欲しい 」と答えました。そこで母は、私を町で唯一の本屋に連れて行ってくれました。70年代半ばの書店にはあまり本がなかったので、書店内を見回し、三文字の名前の本を指差して、「あれが欲しい」と言いました。店員は「哲学の本と言われていますが、読めますか?」と確かめました。私ははっきり言えませんが、心の中では、とても深くて奥深い本が欲しいと思っていました。母が本を買ってくれたので、家に帰りました。
その日、家に帰ってベッドに静かに横たわり、本をちらりと見て、心の中で求めていたものとは違うと感じたので、脇に置き、ゆっくりと死を待っていました。恐怖感はありませんが、母が自分のために大変な苦労をしてきたので、まだ恩返しをしていないことで切なさがありました。そのとき、横になっている自分が、突然、風が吹いて物が乾いたような感覚になり、自分の病気が治ったような気がしました。私は訳の分からない状態から目を開け、ゆっくりと座り前後に動かし、それからトイレに行ってみると、本当に出血が止まり、あっという間にきれいになりました。高麗人参スープを作っている母に、「お母さん、治ったよ!」と声をかけました。母は悩み苦しんでいる顔を上げ、「薬をまだ飲んでいないのに、治ったの?」と聞きました。私は確信を持って、「うん、止まった」と言いました。母は悲しみから喜びに変わり、「どうして良くなったの?」と問い続けましたが、私は答えられませんでした。「冥々のうち、誰が自分を救ってくれたのか」という疑問がずっと残っていました。
また、中学生時代のある日、一人でバスに乗って祖母の家に行った時、北京の前門で乗り換えなければなりませんが、70年代後半の前門大通りには観光客が多く、交通機関が少なくて、バスが来ると、皆が順番に並ばずに押し合っていました。 夏で暑かったので、なんとかバスに乗り込み、窓際に押し込ったら、ちょうど人が降りて席が空いたので、ほっとして慌てて座りました。しばらく座っていると、ふと、私の席の横に纏足の痩せたおばあさんが立っているのに気づきました。席を譲ろうと思いましたが、ぎっしりと詰んでいる車内を見ると戸惑ったので、動かずに、顔はわざと窓側に向いて外を見ていました。 その時、おばあさんが「廟は倒れたが、神は倒れるはずがない」と言っているのが聞こえました。その後に、何を言ったか覚えていませんが、ちょっと不安になって少し躊躇したあと、「やはり席をおばあさんに譲ろう」と思って立ち上がろうとしたら、おばあさんの姿が消えました。バスは走行中で、まだ駅に到着していないのに、おばあさんはどこに行ってしまったのだろうと不思議に思いました。当時は「廟は倒れたが、神は倒れるはずがない」という言葉の意味がわからなかったのですが、その言葉はずっと心に残っていました。
大人になって、人生の紆余曲折を経て、私は社会の中で争ったり情と欲望の海の中で流されたりして、心の中では疲れと苦しみを感じ、時々「何のために私は生きているのか?」と空を見上げて考えていました。私は本を探して読みましたが、『十万個のなぜ』でも私の疑問に答えられませんでした。
二、法輪功との出会い
1993年のある日、健康増進のためによく気功を練習していた母は、私に法輪功のことを話し、『法輪功』という本を渡して読むように勧めてくれました。 それほど分厚くない本を読み終えた後、心に衝撃が走りました。当時の社会はすでに物質主義が横行し、人々がお金ばかりを追求して、闇や策略を研究するのが流行っていましたが、この本は、いかに自分の心を修めて良い人間になるようにと教えているのです!
中共の無神論の教育を受けてきた私は、人が神佛の境地まで修煉できることを本で初めて知り、あまりにも想定外で驚きました。まるで光が闇を突き破り、心の底に差し込んだように、「人間はあれほど気高い生命になれるのだ!」と思いました。その日、法輪功を煉っている母の姿を見て、その動作がとても美しく感じたので、私の心からは親しみと喜びが湧いてきました。動作を真似して煉っていると、本当に何かが回っているような気がしました。
その時から、法輪功に注目するようになりました。法輪功創始者の李先生は全国各地で功法を伝授しておられ、北京ではすでに13期の功法伝授クラスを開かれたことがあり、多くの人は李先生が再度北京に来られるのを待ち望んでいると聞きました。1993年の暮れ、ようやく李先生が北京に来られ、弟子たちを連れて東方健康博覧会で病気を治療されているという話を聞きました。車椅子で麻痺していた人がその場で立ち上がったり、腰が90度曲がっていた人が治療を受けて背筋を伸ばしたり等々、その治療効果は驚くほどであったそうです。
母はいろいろ紆余曲折を経て、李先生が健康博覧会に臨時に追加された3回目の講演会のチケットをようやく手に入れました。当時、1993年の東方健康博覧会では、法輪功が特別招待のスター功派であると報道されました。博覧会での李先生の気功講演会はとても新鮮で、1回ではみんなの要望に応えられないので、博覧会の実行委員会は再度追加することを決め、閉会式当日に3回目を追加し、この3回目の講演会で、当時北京で噂の神々しい李大師に初めてお会いすることができました。
その日の午前中、開講前の時間に講堂に直行しましたが、すでに会場は満席状態でした。母と一緒に前に進むと、ドア側の4~5列目で服を置いてある席を見かけたので、私はその服を取り上げ、母を連れてそこに座りました。 心の中では、「ここは、スタッフが自分の親族のために取っている席かもしれないが、気にしない、とりあえず座ろう」と思いました。しばらくすると、服の持ち主である女性2人が席を探しに来たので、私は真顔で「服で席を占拠するのはいかがなものでしょうか」と言いました。2人は「他のところに行きましょう」と言って、そこを離れました。当時の私は普通の常人の中で良い人だと思い込んでいましたが、大法を修煉しなければ自分の利己的な行動も感じられませんでした。
しばらくして、騒がしい座席から拍手が聞こえてきたので、顔を上げると、師父がすでに入り口に立って私たちのほうを見ておられました。その瞬間、私は「この先生の品行は素晴らしい!」と呆然としてしまいました。師父は本の写真より若く見え、背が高く、身なりは素朴でしたが非常に清潔で、優しくて凛としたお顔は、一目見ただけで人を粛然と尊敬の念を起こさせるものでした。周りの多くの人が師父に握手を求めていましたが、私はまるで動けなくなったかのように立ったままでした。師父は笑顔で皆と握手を交わしながら演壇へ向かわれました。
師父が話し始められると、講堂が一瞬にして静まり返りました。師父は、私たちの多くの人が病気治療の目的で来ていると話された時、私は「私は理論を聞きたいだけだ」と考えました。続いて師父は私たちを見て、「理論を聞いてみたい人もいます」と言われました。「師父は人の考えを知っておられる!」と私は驚きました。
そのあと、師父の話の内容に魅了され、先史文化のことや、人間はかつて美しい世界にいたこと、人間は確かに猿から進化したのではないこと、人生の多くの疑問が次々と解き明かされました。それまで気功講演会に通ったことがなかった私は、気功師がみんなこのように教えていると勘違いして、「気功はこんなに奥深いものか、次の気功講演会があったら行ってみよう」と考えました。
その時、師父は「忠告しておきますが、決して行ってはいけません。聞けば、良くないものがすぐ耳に入り込んでしまいます。一人の人間を済度するのはきわめて難しいことで、あなたの考えを直すことも難しく、あなたの身体を調整することもきわめて難しいのです。偽気功師はいくらでもおり、たとえ本当の正法伝授を受けた気功師でも、本当にきれいなのでしょうか? 非常に凶暴な動物もおり、その気功師本人の身体には乗り移れないにしても、彼にはそれを追い払う力がありません。彼は多くのさまざまな憑き物に対抗する力は持っていません。特に彼の弟子はなおさらです。彼らの出した功には、さまざまなものが入り交じり、いろいろなものがあります。その気功師自身はまともであっても、彼の弟子はそうではなく、さまざまな憑き物がついているのです」[1]と説かれました。
私はすぐに理解し、李先生の功法を学ぶことを即決しました。
講演会の最後に、師父は皆に立ってもらい、「私の言う通りにして下さい。左足を踏むように指示したら、左足を踏んで下さい。右足を踏むように指示したら、右足を踏んで下さい」と教えられました。師父が「踏んで下さい」と指示される時、大きな手を横に振って、その腕がとても長いことが一瞬で見えました。師父はとても素早く手を振られた後、何かを握りしめたように演壇の裏に行って、そしてしゃがんで何かを置くように手放して、自分の腕をちょっと撫でられました。
その日、2時間の講演会はあっという間に終わってしまったと感じ、まだまだ聞きたくて、次の講演会はいつになるだろうと、会場を離れずに躊躇している時、師父は再びマイクの前で、天津で功法伝授クラスを開催することや、北京の人も参加できること、チケットはどこで販売するかを言われました。 私はどんなに遠くても行こうと即決しました。その当日、天津第一期功法伝授クラスのチケットを購入することができました。
その日、講堂から外に出たとき、今までに感じたことがなかった空を飛ぶような軽やかさを覚えました。それは、師父の慈悲のご加持のおかげだと、後になって分かりました。
(続く)