ギラン・バレー症候群から回復
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文/黒竜江省の大法弟子が代筆 

 【明慧日本2022年11月6日】私はよく周りの人に恵まれない人だと言われていました。小さい時に母親を亡くしました。姉が私を育て、私の教育費を払い、私の就職まで手伝ってくれました。姉の助けで、私は結婚し、優しい妻に出会い、可愛い息子に恵まれました。

 しかし、それも長くは続かず、息子が結婚したばかりのとき、本来なら私は人生で一番楽しい時期になるはずですが、2016年12月に難病の「ギラン・バレー症候群」を発症し、倒れてしまいました。

 この病気は、がんよりも悪い病気で、有効な薬がなく、死亡率もかなり高いのです。発症の最初の症状は、指先のしびれから、徐々に全身に広がり、10日も経たないうちに脳の機能はちゃんとしているものの、頭以外の全身が動かせなくなりました。市の病院の医者は、「この病気はとても稀なので、いい治療法がなく、治る確率は少ない。特に50歳代で体の機能が衰えている人はより難しい」と言いました。それを聞いて、病院から死刑を宣告されたと私は感じたのです。

 私の義母は法輪大法の修煉者でとても優しい人です。義母と妻は、かすかな望みがあれば、諦めずに私を救いたいと考えたそうです。そこで、義母と妻は救急車を頼んで夜中に私を市の病院から省の病院へ転院させました。救急車の中で、妻の妹(大法修煉者)と家族は「法輪大法は素晴らしい」とずっと唱え、一刻も早く省の病院へ向かいました。病院に着き、スムーズに入院できたのは、皆が「法輪大法は素晴らしい」と唱えたからだと思いました。というのは、当時、その病院は患者が多くて、病室の空きはなく、外の廊下もベッドで埋め尽くされている状態だったのです。

 翌日、私は気管切開されました。私の病状は急速に進行し、痰を吐くことができなくなり、痰を吸引しなければ、窒息死になってしまう可能性があるからです。その後、集中治療室(以下、ICU)に移され、1日の医療費は1万元超えました。妻はあちこちからお金を借りに行きましたが、私のほうの親戚や友人たちは、私が死んだら返せないと恐れて、誰もお金を貸してくれませんでした。結局、治療費として20万元以上を出してくれたのは、義母の家族でした。

 省の病院で、この病気の治療薬がなく、毎日栄養剤を点滴して命を維持していました。 最後に医者から、病院にはない薬局で買わなければならない薬を勧められました。この薬は7日間しか投与できない(非常に強い薬と言われている)、7日間使って効果があればラッキーなことですが、なければ全く望みがなくなるということでした。

 7日間その薬を使いましたが、効果はありませんでした。そして、病院の医者は、「家に帰ったほうがいい。ここで入院していてもお金の無駄だ。治る可能性は低いです」と言いました。病院から死の宣告を受けたので、私は絶望的になりました。家族は、私が前に入院していた市の病院に移動できるよう準備をしました。

 ICUから車椅子で出てきて、エレベーターに乗ろうとしたとき、痰がからんで、私は気絶しました。この時、自分は暗いトンネルのような場所にいると気づき、あまりの暗さに怖いと思いながら、前方に少し明るい光が見えたので、早足に前へ進みました。歩いていると、突然、まぶしい感じがして、目が覚めました。目を開くと、自分が救急措置を受け、生き返ったとわかり、まぶしく感じたのは救急室の光だったのです。この臨死体験のプロセスは、今になっても、とても鮮明に覚えており、怖いものでした。この出来事を通して、人が死んだらすべて終わりというわけではないこと、無神論は嘘であることに気づきました。

 病院で目が覚めた後、義母から電話で、「法輪大法は素晴らしいと唱えて、帰ってきてください」と、妻に言いました。

 気管切開で痰を吸引しなければならず、自宅にその吸引器具がなかったため、市内の中医病院のICUに入院したのです。長い間食事ができなかったので、私は極度に瘦せ、ベッドの上にミイラのように横たわっていました。医者は、夜眠ている間に、亡くなる可能性があると言われました。特に、そのひどい臨死体験をしたので、「寝ている間に死んでしまうのではないか」と心配で夜も眠れませんでした。夜中に、ICUからの移動ベッドで外へ運ぶ音がして、それに続く女性や子供の泣き声が聞こえて来ると、誰かが亡くなったのだとわかるのです。私は妻と息子の無力感の目を見て、「死神が私を手招きしている。私にとって死は時間の問題だ」とわかりました。この絶望と恐怖の中で、私はとても苦しかったのです。

 入院3日目、義母が見舞いに来ました。ICUのルールでは、家族に15分の面会時間しか与えず、しかも、1人ずつしか入れてくれないのです。ですから、義母は私と5分しか面会することができなかったのです。義母は限られた時間で、私に何度も何度も大きな声で「心から、『法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい』を暗唱してね。大法の師父しかあなたを救えないから」と言った後、法輪大法の文言が書かれたお守りを点滴ボトルを掛けているラックに掛けました。私がいつでも見られるように、忘れずに唱えるようにしてくれました。

 その夜、1人の女性が私に近づいてきて、微笑みながら、「誰があなたを救ったかわかりますか? 李さんという方です」(他の話はよく覚えていない)と言って、立ち去りました。「この方は誰だろう? ICUのドアを開けていないのに、どうやって入ったんだろう?」と当時は理解できませんでした。私は死の淵をさまよっているような感覚で、苦痛に耐えながら、絶望の中で「法輪大法は素晴らしい」を念じ、この唯一の救命のものを懸命に掴みました。今になって、そのとき、大法の師父はあまりの不安と恐怖に怯えている私を見て、「命を救ってあげた」と伝えにきたのだとわかりました。

 なんと、奇跡が起きました! 私は食べ物を食べられるようになったのです。流動食しか食べられないのですが、妻は喜んで義母に告げました。そして、義母は家で私のため食事を作ってくれました。義母は粉砕機で流動食を作るとき、機械に向かって「法輪大法は素晴らしい」と唱え、野菜を洗ったり切ったりするとき、ほうれん草や白菜、ブロッコリー、卵などに向かって、「法輪大法は素晴らしい」と唱えたそうです。

 その後、私は中医病院のICUから自宅の近くにあるリハビリテーション病院へ転院しました。妻が病院で私に付き添い、義母が毎日食事を作って持ってきてくれました。食事を持ってきたとき、義母は私に大法の修煉で起きた奇跡や九死に一生を得た物語などをよく話してくれました。私は励まされ、自信を持つようになりました。

 義母の同修も私を見舞いに来てくれて、慰めてくれました。同修たちは、大法の師父と大法を信じることで希望と未来があると教えてくれたのです。義母は毎日、李洪志師父が広州での説法を一講聞かせてくれました。その頃、私はもう義母から離れられなくなり、義母が次の食事の支度をするための時間さえ長く感じたのです。私はいつも妻に、「お母さんを早く呼んでくれませんか」と言いました。妻は私の口の形を見て、義母に早く来てほしいとわかり、お母さんに電話し、「お母さん、早く来て。主人がお母さんに会いたいと言っているよ」と言いました。すると、義母は早く食事を持って来てくれるのです。

 すでに74歳になった義母は毎日私のためによく動いてくれました。元気いっぱいの姿をみると、大法の修煉をすると、健康になり、体力がつくと信じるようになりました。私は入院しているものの、毎日、心身ともに大法の恩恵を受けていました。このようにして、私は徐々に体重が増え、座ったり立ったりできるようになり、気管の傷口も縫ってもらい、痰の吸引器具を使わなくなりました。そして、なによりも話せるようになり、食べたり飲んだりできるようになって、生き返ることができました。私に新しい命を与えてくれたのは大法なのです!

 その後、私は退院し、家に帰りました。家の中で歩行器を押して歩く練習をしました。そのうち、歩行器を使わずに歩けるようになりました。アヒルの子のように左右に揺れながら、「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と唱えながら、一歩一歩、歩きました。現在、正常の人と殆ど同じ歩き方ができています。

 結び

 ここで、偉大なる師父が私を救ってくださったこと、第二の人生を与えてくれたことに感謝したいです。家族と一緒に幸せに暮らせることができるのは師父のおかげです。真夏の中で一日三食を作ってくれ、私を法輪大法の修煉の道に導いてくれた義母に感謝します。法輪大法は素晴らしいです! 真・善・忍は素晴らしいです!

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/10/28/451216.html)
 
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