電波ジャックの勇士 懲役19年の重刑を経て九死に一生(三)
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 【明慧日本2023年1月12日】(前文に続く)

 (三)蘭州刑務所で、足枷をかけられて小屋に監禁された

 「蘭州刑務所(即ち大砂坪刑務所)は蘭州黄河の北面にあり、仏慈大街298号に位置します。刑務所の生産区は生活区を囲んでいます。総面積は34万9千平方メートルで4000人あまりを拘禁し、警官は1000人あまりいます。受刑者たちは宝石を磨く、サッカーボールを縫う、電球を作る、ランタンを作る、絨毯を織る、セーターを織る、鋼鉄のドア・窓を作るなどの強制労働を強いられました。

 2001年から、当刑務所は甘粛省の男性学習者を拘禁し始めました。2004年~2005年までの間、拘禁された学習者は最多になり、120人以上でした。刑務所の「小屋」は生産区に設置され、一列に30部屋ぐらいある平屋で、両側にドアがあります。「小屋」は6平方メートルの広さで、ベッドがレンガとコンクリートで作られていて表面はでこぼこです。前に幅が30-40センチ溝の便所があり、窓はないです。

 ドアの外に4平方メートルの鉄のケージがあり、毎晩、当番の警官が2人いましたが、そこに、8~10人程度の受刑者が24時間おり、小屋に拘禁された人に手枷をかけ、体罰などをおこなっていました。その後「小屋」は生活区に設置され、上は平屋で「小屋」は地下になりました。中には死人ベッド、鉄の椅子、発泡スチロールの壁があり、中の音が外に漏れない構造になっています。

 2005年11月1日、刑務所は再び学習者にひどい迫害を加えました。ある学習者は4人の受刑者に監視され、睡眠を剥奪され、1日にまんとう1つ、1カップの水しか与えられず、同時に洗脳を受けました。ある学習者は手枷と足枷をかけられ、禁足(きんそく:一定の場所に居させて、外出を禁ずること)をされました。ある学習者は空中に吊し上げられ、ある学習者は迫害で重体に陥りました。

 蘭州刑務所は、2カ月をかけてやっと私の受け入れに同意したそうです。11月2日、私は蘭州刑務所に移送されました。私が下車するとすぐに受刑者に「小屋」まで連行されました。受刑者らは警官に媚びるため、一緒に私を殴った後、坊主頭にし、服を脱がせてボロボロの囚人服を着せました。

 私が迫害に協力しないので、最も重い足枷(重さ38キロ)をかけられました。そのため、トイレすらも受刑者らの助けが必要で、8日後、入監隊に移送され、刑務所の規則を暗記させられました。

'酷刑图片:戴脚镣'

拷問のイメージ図:足枷をかける

 入監隊とは入所したばかりの受刑者が労働のほか、整列の訓練と刑務所の規則教育を受ける過渡的なエリアです。ほとんどの受刑者は2カ月の訓練を受けてから、それぞれの生産エリアに配置されます。その時、入監隊にはすでに十数人の学習者がそこで迫害を受けていました。私と一緒に不当な判決を宣告された7人のうちの6人とそこで再会しました。しかし、劉志栄さん(懲役18年の不当な判決)は私が来る前に天水刑務所に拘禁され、その後、迫害されて亡くなりました。

 当時、入監隊の個別牢屋担当の警官は、当番の警官と受刑者らに指図し、学習者を殴り、苦しめました。入監隊の指導員・王長林は苦役の労働をしない学習者に対し、労働現場の空中に吊り上げました。私が目撃したのは学習者・畢文明さん(迫害により死亡)、強小宜さんです。

 1号牢屋の警官・何は元の指導員で、過失で入監隊に移動されたそうです。私が入監隊に入った時、数人の学習者は迫害に抵抗したとの理由で警官に手枷をかけられ、労働現場の空中に吊り上げられました。当時の蘭州刑務所の入監隊は甘粛省の学習者が一番集まっていたところだそうです。訓練を受けた人たちの多くは蘭州刑務所に残され、一部は地元の刑務所に移送されました。

 蘭州刑務所は江沢民の追随者がよく視察するところです。2004年の初め、羅乾は政法委員会(治安・司法などを統括する機関)を引き継いでから1年後ごろ、蘭州刑務所を視察しました。2009年に周永康も来ました。司法部長の呉愛英は2回蘭州刑務所を訪問し、上海の政法委員会の書記・呉志明も視察に来ました。

 警官・何は、入監隊でみんなが見ている前で、ある武威市の学習者を殴りました。それで入監隊の全ての学習者は断食で抗議しました。抗議が終わってから、私たちのような入監隊で長くいた人はそれぞれの生産エリアに配分されました。

 (四)警官の暗黙の中で、脳震盪するまで殴打

 2004年6月、私は蘭州刑務所の第4監獄区に移送されました。私より先にその監獄区に移送されたのは白銀市で電波ジャックをした学習者・常具斌さんです。常さんは白銀市検察庁の元検察官です。常さんと協力し合って電波ジャックをしたもう1人の学習者は張廣利さんで、蘭州刑務所の第9監獄区で迫害を受けています。

 当時の白銀市の電波ジャックは、大成功して大きな反響を呼び、市民たちは法輪功の冤罪は晴らされたと思ったそうです。しかし、常さんと張さんはそれぞれ懲役11年と12年の不当な判決を宣告されました。白銀市も法輪功迫害のひどい地域の一つです。2010年から、蘭州刑務所に拘禁された学習者のほとんどは、白銀市610弁公室によるものでした。常さんは監獄区のリーダー・高振東に苦しめられて精神異常になったそうです。聞いた話では、常さんは出所後も好転せず、よく勝手にふらふらと出回るそうです。

 当時の蘭州刑務所の学習者に対する迫害は、主に彼らの管理に服従させることで、まだ洗脳と暴力の侵害などの系統的な迫害には発展していなかったのです。第4監獄区では、私はリーダー(彼は苦役の労働をしなくていい)に監視され、ルームメートの他の3人も監視をサポートしました。

 リーダー・魏宏偉は、20代の蘭州出身で、危険人物として有名です。最初の頃はなんとか平和ですが、2カ月後、魏は嫌がらせをし始めました。9月、10月の間は、さらにエスカレートし、私を殴ったり、罵ったりして辱めました。1週間に4回ほど私を殴ったこともありました。彼は布団を私に被せて、思い切り殴りました。その後、私は鼻血が出て、軽度の脳震盪を起こしました。

'酷刑图片:殴打'

拷問のイメージ図:殴打

 その期間、私はさらに3人の受刑者らにも殴られました。私はこのような虐待を上層部の警官に訴えましたが、無視されました。つまり、魏の暴行は黙認されました。魏の暴行は他の受刑者らも見ていられないほどで、私に同情したそうです。

 10月中旬のある日の早朝5時ごろ、私は鼻から血が出始めました。これは殴られた後の頭部のうっけつだとわかりました。私はトイレペーパーを使って、約10分ぐらいで血を止めました。その後、頭が軽くなり、意識もはっきりしてきました。私は自分で片付けて他の人の邪魔をしませんでした。

 昼間、私は他の受刑者の前で、指で魏の鼻を指しながら「君は法輪功に感謝すべきです。私は法輪功を学んでいなければ、とっくに君をブン殴ったかもしれません」と言いました。魏は何も言わず、言う面目もなかったのです。同じフロアにいる十数人の受刑者らも「性格が悪すぎ」と魏を叱りました。

 しばらく後、私は副教導員・支に「どんな理由であろう、私はここにきて苦難を受けました。私と魏を別々に拘禁して欲しいです。もし何か思わしくない結果になった場合、君たちはその責任を負わなければなりません」と要望を伝えました。支は特に反応しなかったのですが、数日後、私は第2監獄区に移動しました。

 第2監区の警官は私と面談し、態度も良かったのです。蘭州社会でかつて有名な暴力団の管さんに私を監視するよう手配しました。管さんは当時無期懲役から有期懲役に変更され、共産党の言いなりに従わず、私のことをよく庇(かばって)くれました。連行された後の私は、家族との連絡も途切れましたが、管さんは生活の面においても色々と助けてくれました。私は彼と兄貴のように接しながら、さらに1年が経ちました。

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/12/14/453091.html)
 
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