利己的な人間から、他人の為に生きる人間になる(1)
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文/湖南省の大法弟子

 【明慧日本2023年3月23日】私は中学校の特級教師を退職し、今年78歳です。1998年に法輪大法の修煉を始めました。法輪大法は、私を利己的で自分勝手な人間から、他人の為に生きる人間に変えてくれました。

 他人の私物を持っていってはいけないが、公的な物であれば持って行かない手はない、というのがかつての私の基本的な考え方でした。ですから、そういうチャンスがあれば、決して利益を放棄せず、出張を利用したり、会議を名目にして出かけたり、偽の請求書を出していました。物理の教師だった私は、電器を盗むことにかけてはプロでした。

 学校の電気回路や電化製品の修理を担当していたので、当然ながら自分の家の電線、電球、スイッチなどの電器製品は自分で買う必要がないと思い、必要があれば学校から使用済みの電器製品を持ち帰っていました。1980年代、家には家具が不足していて、木材もなかなか手に入らなかったので、私はひとりで学校の平らな屋根の校舎に登り、フレームから、木材を降ろして持って帰り家具を作っていました。その頃、家族は学校の請負として店と契約し、お金を稼ぐことに大いに能力を発揮していました。年間8000元から9000元の純利益を得ていました。その当時、1万元の収入があれば富裕世帯でした。

 しかし、私の指導成績は結果的に地区の1位から5位に落ち、全身病気の身体となりました。まさに徳を損なった結果でした! 当時は、そのことに全く気付かず、私は完全に常人の中で迷っていました。

 『轉法輪』を拝読した後、人生の中での争いや勝利は私(し)のためであり、得たものはすべて業であり、世の中の理と天上の理は完全に相反するものだと分かりました。人生の目的は返本帰真であり、自分の本当の家へ帰ることです。自らの行いがその逆を行けば家へ戻る道からどんどん遠ざかります。

 『轉法輪』の中では、自分の私利私欲のために他人の利益を損なえば、表面上は金銭や物質的な利益を得られて、良いことだと思うかもしれませんが、実際は「徳」を失い、黒い物質である「業力」を得ることになります。すなわち自分の最も貴重なものを失うという最も愚かなことをして自分自身を害していました。かつての自分を振り返ると、この理を知らなかったために愚かな事をやっていたのです。

 私はすぐにこの道理を理解し、真・善・忍に照らして良い人になることを決意しました。それ以来、私は早速、電気を盗むための電器メーターの「仕掛け」を外しました。さらに生徒の保護者から贈られたお金の入った封筒も、学校からの公費での飲食も拒否しました。

 修煉後、師父の要求に従って勤勉に生徒指導をした結果、指導成績において大きな飛躍を遂げました。私は学校の青少年科学技術指導員でした。私の生徒が作った科学技術作品が、ある年の省の青少年科学技術大会で金、銀、銅のメダル10個、市内で1、2、3等賞を合計24個受賞しました。その数は市内の全受賞数の5分の1を占め、市内の教育関係者の間で注目を浴びました。

 ある年の4月に省の青少年科学技術大会(5日間)のために、他の人は数千元を(宿泊、旅費、会議費、生活費)に使っていました。しかし、私は学校のために出費をできるだけ抑えるため倹約して過ごした結果、95元しか使っていなかったので、平均すると日額19元しか支出しませんでした。

 若い頃、隣人の8分銭を拾ったことがあり、50年以上経って帰郷した時、その隣人を探して理由を説明して20元を返したことがあります。その隣人は私の手を固く握りながら、「今時、世の中にあなたのような良い人がいるなんて!」と言いました。私は隣人に「法輪大法の師父が私を良い人にしてくれました」と言いました。

 大法を修煉していることで、私は何度も中国共産党(以下、中共)に不当に連行され、拘禁されました。刑務所の中で、私は刑務官や受刑者に、「法輪大法は、人に真・善・忍に従って本当に良い人になるよう求めている」と話しました。刑務所の中で私は家族が送ってくれた衣服、タオル、靴下などの日用品を生活支援がない受刑者に与えました。私は彼らに人を殴ったり罵ったりしてはいけない、天上の理に「善には善の報いがあり、悪には悪の報いがある」と話しました。彼らはとても感動し、すぐに私に対する態度や考えを改めました。もともと人を殴るのが好きな受刑者は道理が分かった後、もう人を殴ったりしなくなりました。さらに刑務所から釈放された後、『轉法輪』を買い求めて読みたいという人もいました。

 常に思いやりと平和な態度を保つ

 ある日、40~50代の中年男性が車イスに座っているのを見て、とても気の毒に思いました。彼に真相資料の小冊子を渡すと、彼は手に取ってちょっと見て、汚れた床に放り投げました。「要らないなら要らないでいいから返してくれればいいのに、なぜ汚れた床に捨てるのか?」と恨む心が生じました。即座に私は考え直しました。これは怨恨心ではないでしょうか? 神佛は怨み言を言うはずがあるでしょうか? そして、私はすぐにそれを地面から拾い上げ、小冊子からほこりを払って、穏やかに彼に言いました。「それが必要ない場合は私に返してくれればいいです。ただの小冊子だと思わないでください。大惨事が訪れた時、人を救うことができる宝物だとわかりますよ」と言いました。この時、相手は間違ったことをしたことに気づき黙り込みました。

 実際、毎日真相を伝える活動に出かけると、さまざまな人に遭遇します。侮辱したり、嘲笑したり、皮肉を言う人もいて、心が動揺します。ある日、あるおじいさんに真相資料を渡したところ、おじいさんは「あんたの頭は死んでるよ!」と言いました。私は笑いながら、「まだ死んでいませんよ。頭はどうやったら死ぬんですか?」と言いました。さらに私に殴りかかろうとして手を挙げる人もいましたが、私はいつも笑顔で「怒ると身体に悪いですよ」と答えていました。修煉者は常に穏やかな精神状態を保ち、特に人に真相を話す時は、常に顔の表情に気を付け、人に穏やかな感じを与えて、受け入れ易くする必要があります。

 ある時、中年の女性に話しかけたところ、その女性はとても快く話を聞いてくれ、真相資料を欲しがりました。すると突然、彼女の夫が駆け寄ってきて、私を大声で罵り、大法を中傷しました。その女性は、「他の人達はこの人に対して笑顔で接しているし、みんなこの人を良い人だと思っているのに、あなたはどうしてこんな失礼なことをするの!」と夫に向かって言いました。この時、彼女の夫はもう何も言いませんでした。穏やかな表情にはある種、力があるのだと私は身をもって経験しました。

 あなた達は本当に最高に良い人です!

 ある朝、正念を発した後、真相を伝える活動のために真相資料を持ってA地点に向かって急いでいました。しかし、A地点は私の家から数10キロ離れており、B地点で一度バスを乗り換えなければならず、バスでB地点に着いた時には7時を過ぎており、A地点行きのバスはすでになくなっていました(7時前ならバンがあった)。その時、私と同様に仕事に行こうとしていたお年寄りの男女がいました。2人はその日来るのが遅れ、もう乗れるバスがなくなったと言いました。

 突然、ある老人がやってきて、私たちに「A地点の市場に行くのですか?」と尋ねました。私たちが口を揃えて「そうです」と答えると、その老人は、息子はバンを運転していて、すでに乗って行ってしまったが、もし私たちが乗りたいなら20元(本来なら1人4元ほど)の運賃が必要だと言います。私たちが同意すると、その老人はすぐに息子に電話して、20元の運賃で交渉したと息子に話しました。息子はすぐに車でやって来ました。この時、その老人は「あなた(私を指して)が10元、そちらの方たちがそれぞれ5元ずつ払ってください」と言いました。私は、このような小商いで稼ぐのは楽ではないし、私に多めに払って欲しいと言うことなのだろうと思い、反感を持つことはありませんでした。もしかすると、師父が私の利益にこだわる心を捨てさせようとしたのかも知れません。乗車後、私はためらわずに10元を取り出し運転手に渡して、そのことは終わりになりました。

 バスで席を譲るというのはよくあることです。以前、バスに座っていた時、乗客に真相を伝えたところ、その乗客はその真相を受け入れないどころか、「あなたたち法輪功の人は共産党から年金をもらっているが、それでも共産党に反対するなんて、良心が欠けている」などと言い出しました。その人の言葉に同調する者もいて、乗客の何人かが、法輪功のここが良くない、あれが間違っている、病気になっても薬を飲まない、ビルから飛び降りた、中南海を包囲した、焼身自殺した、などと議論していました。

 この時、80歳くらいの老人が乗って来ましたが、空いている座席がありませんでした。病院から出て来たばかりの患者さんのように見えたので、私は気の毒に思い、すぐに席を譲ってあげました。するとその老人は私にとても感謝しました。

 この小さな行いによって、車内は急に静かになりました。私はすぐに彼らが法輪功学習者のことを理解したのだと気づきました。車内には多くの若者や中年の人がいましたが、席を譲る人はいませんでした。もし、法輪功学習者が本当に悪い人間なら、80歳近い老人の私がどうしてすすんで席を譲るでしょうか? 事実を目の前にして、誰も何も言えませんでした。

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/2/20/439866.html)
 
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