文/中国の大法弟子
【明慧日本2023年8月30日】地元のある同修は一日中ずっと笑顔で、真相を伝える時もいつも笑顔で、話の相手はとても親しみを感じます。真相を受け入れない人に対しても、彼女は笑顔で相手の幸運を祈るので、相手に嫌われることはまったくありません。彼女は中国共産党に迫害されたため、夫に離婚を伝えられました。真相を伝える時、話をしていると、相手が「ご主人は何のお仕事をされているのですか?」と聞いたりする時もありますが、彼女は「私は離婚しました」と答えると、 相手はほとんど、「そんなはずはない! 冗談でしょう。離婚したのに、このような爽やかな笑顔ができるはずがないでしょう」と信じようとしません。それは、辛いことを経験しても依然として穏やかな心境を保てる優しい人を見たことがないということです。
また、法を得て、修煉を始めたばかりの同修はよく、「私には師父がおられます! これからは師父が面倒を見て下さいます!」と非常に喜び、興奮したります。
しかし、私は修煉の年数を重ねるにつれ、師父が常にそばで見守って下さることも感じますが、同修のような興奮や帰属感はなく、それを自分の悟性の低さのせいにしています。
長年修煉してきたとは言え、私は一日中笑顔でいられる状態を培ってきたわけではなく、むしろ無表情でいつも不機嫌な顔です。感情に振り回されるような、表立った喜びや怒るようなものではなく、常にこのような心理状態です。とにかく、どんなことがあっても、うれしそうな表情が浮かびません。
なぜいつも笑顔になることができないのでしょうか? なぜいつも厳しい顔をしているのでしょうか? それは、うれしいことはあまりなく、不愉快なことがよくあるからです。例えば、子供の試験がうまくいかなかったとか、子供はいつも携帯を見たりして、言うことを聞かず成績が上がっていないとか、夫が自分に優しくしてくれないとか、家族が多いのであれこれ厄介なことがとか……要するに、良くないことが多すぎて気分が悪いのです。ものがうまくいかなかったり、十分に満足できなかったり、つまり、自分の期待を満たすことができないため、うれしい顔ができないのです。
最終的に言えば、依然として人間のものに欲望を抱き、それを求め、世間の損得を気にかけており、それに苦しむということです。
自分は何を求めているのでしょうか? すべてが順調で、良いことばかりの生活状態です。子供は誰もがうらやむ優秀で、家族が良い職に就き、より多くのお金を稼ぐことができ、両親は健康で、自分に迷惑をかけることがない等々です。物質的に豊かで、衣食住も裕福であり、悩みは一切なく……、即ち、人間の中に快適な人生を送ることです。実際の生活の中ではこれらの期待に達することはできませんので、笑顔ができないのです。
自分が苦しんでいるのは何ですか? 嫌なこと、うまくいかないこと、面倒なことへの恐れ、人生の無常、世の中の予測不可能さへの恐れ……失うのが怖いから嬉しく思うことができないのです。たとえうれしいことがあっても、得をすれば損をすることを恐れて、うれしく思わなくなります。すべての「不機嫌」はみな、「得られないこと」と「失うことへの恐れ」によるものです。 つまり、この不機嫌は、名、利、情などの得失が中心なのです。
20年以上も修煉を続けてきたのに、私の観念はまだ変わっていないことが分かりました! 私はまだ人間の損得を求めているのです! 20年以上修煉しているにもかかわらず、私はまだ人間のものを掴んで放そうとしません!
人間の理はすべて反対になっており、師父は、「常人の中で楽に暮していれば、どうやって修煉しますか? あなたの業力はどうやって転化するのですか? 心性を向上させ、業力を転化させる環境はどこにあるのでしょうか?」[1]と説かれています。
実際、居心地が悪いのは当然であり、正常なことです。人は生々世々の輪廻転生の中で無限の業力を作ったのに、どうして居心地がよいことがあるのでしょうか。 不快であってこそ、苦しみを嘗めることができ、業力を消去して向上することができるのです。もし悩みが一切なければ、師父があなたのことを管理していないということになります。私はこの観念を完全に変えていないことが分かりました。
長年の修煉を通して、大きな利益の試練の前で放下することができ、平然と捨てることができ、名・利・情をすでに放下したと思い込んでいました。実際、平然と放下することができるのは、自分のものではないと思っているものです。いわゆる自分のものに対しては、とてもしっかりと掴んでいるのです! そうでなければ、なぜ不機嫌になるのでしょうか? なぜ苦しく感じるのでしょうか? うれしくなくなるのは、「利益」を失ったとき、あるいは「名声」を失ったとき、あるいは「情」を傷つけられたときではありませんか? これらを早く捨てなければ、それらの名・利・情を天上に持って行くつもりでしょうか?
師父が私たちに説かれた法理は、修煉とはすべての常人の心を含む人間の執着心を取り除くこと、すなわち「人間」のすべてを捨て、「人間」と決別することです。 修煉とは少しずつ「人間」のものを捨て、神へと向かうプロセスであるということです。真に神に向かうためには、人間の執着をすべて放下しなければならず、人間的なものがほんの僅かでも残っていれば、より高い次元、より高い境地に入ることはできないのです。
実際、「不機嫌」、「満足できない」、「うまくいかない」と感じる時はすべて、師父が私たちに人間と決別させるために按排して下さった機会であり、良いことなのです! 私たちが名・利・情から抜け出し、神へと向かうための機会なのです。自分がそれを知りながら、まだそれを放下できないのは、即ち人間の観念が強すぎて、自分の本性が深く迷いすぎていて、悟性が低すぎるということであって、師父の慈悲と苦心なる済度に背いているということです!
なぜ同修は毎日幸せ気分でいられるのでしょうか? それは、人間のものを放下することができ、人間的な損得を気にしていないからで、当然、不機嫌なことはなくなるのです。毎日、大法の恩恵を受けている中で、師父が入念に按排して下さった比類のない道を歩み、三つのことを行っているので、まさに師父は、「常人の得ようとするものは求めようとしません。そのかわり、常人は修煉しないかぎり、われわれの得るものを得ようとしても得られません」[1]と説かれました。。これらの良いものを手に入れて、毎日が笑顔になれないわけがないでしょう?
現段階のわずかな悟りですが、適切でないところがあれば、慈悲のご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』