トラブルを利用して内に向かって深く探し、人心を見つけ出す
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年8月10日】最近、同修たちと交流する時、彼らはよく自分の身の回りに起こったいくつかの出来事、乗り越えた心性の関について、「葛藤の中でどうだったか」、「自分の心性をどう把握したか」、「幸い自分の心は動じなかった」等の話をしています。いずれにせよ、彼らにとってはそれで話が終わり、関を乗り越えたと感じているようでした。

 また、特に年配の同修の中には、家族や同修の間との軋轢を語った後、深く内に向けて探すことなく、「(家族や同修が)心性を向上させるきっかけを与えてくれた」と断言する人も少なくありません。そのあと、すべての葛藤があっさりと収まったように考え、自分が一線を越え、相手と張り合うような接し方を取ってないと感じ、関を乗り越えたように見えました。

 このようなことを同修から聞かされた時、傍観者である私は、上記の同修の悟りについて、これまでとは違った見解がありましたので、ここで少し書き出して同修の皆さんと考えてみたいと思います。

 トラブルに直面する時に、当事者の同修が物事の上辺に左右され動じなかったことは、大法修煉者が高い基準で自分を律している思想境地の高さを反映していることを否定しません。しかし、この「心を動かさない」、「心性を向上させられた」という悟り方は、少し分かりにくいようで、ある見方をすれば、私利私欲の現れです。というのも、それは葛藤の過程において、修煉者が自分の状態の現れのみ集中することにし、無意識のうちに満足感が醸成され、さらに深刻なことに、修煉者にトラブルの他の多くの側面を見落とす傾向が現れてくるからです。

 また、この悟り方は当事者同修は更にトラブルの上辺から辿って深く掘り下げることの妨げになります。たとえば、当事者の同修は、トラブルに直面した当人として、「なぜこのようなことが起こったのか? 潜在意識の中でどのような執着心が、間違った考えや不適切な言動を引き起こし、このような事態を招いたのか? 相手の立場に立って考えてみたのか? 衝突の中で、相手にどのような苦痛や危害を与えたのか? 相手が自分自身や大法に対して悪い印象を持たないように、そして最終的に大法を実証できるために、私はどのようにこの損失と向き合い、解決し、埋め合わせをすればいいのか? そうすれば、この争いを引き起こした『真犯人』である自分の執着心を明らかにできるかもしれない」等と振り返ります。よくよく掘り下げてみると、多くの場合、執着する心は一つや二つではなく、多くの執着心がつながっています。

 このように、まず第一段階として、私たちはそれらの執着心を暴き、見分けるのです。次に、私たちはそれに注意を払うだけでなく、実践の中で、試行錯誤の過程で、骨身に染みる思いをする中で修め、取り除くのです。同時に、私たち自身の空間場から、これらの腐敗したものを完全に取り除き、消滅させるまで、より正念を送り出さなければなりません。

 もちろん、修煉の初期段階において、修煉者がトラブルや魔難に直面しても、自分の心を動かされないように心性を守ることができれば、それは修煉者の堅固な修煉を反映したものであり、法がある境地の修煉者に求める様々な要求を満たすものです。しかし、法を正す進展が進むにつれて、私たちも個人修煉の段階から全面的に法を正す修煉の段階に移っています。師が大法弟子たちに悟りと啓示を与え続けるにつれて、大法弟子たちの修煉の水準も継続的に上昇しています。そのため、私たちはトラブルを通して、大法に照らし合わせ、真に深く内に向かって探すことができ、より多くの執着心を見つけ、それを取り除くことができ、また、師が私たちの修煉に按排してくださる機縁を大切にすることができるのです。

 少し個人的な理解ですが、もし一方的なことがあれば、同修のご指摘をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/7/13/462889.html)
 
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