同修を見下すのは師父への不敬である
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文/海外の大法弟子 

 【明慧日本2023年9月21日】私は自らの判断基準で、人心が重い同修を見下す習慣があります。彼らの話には、自慢、お世辞、嫉妬、軽蔑などの要素が含まれており、問題をかく乱していると思っています。私はこのような同修に対し理解しがたく、抵抗感がありました。ある日、またこのように考えると歯が痛くなり、体調を崩してしまいました。その後、同修に対して、いかなる観念と人心をも抱かず、必ず慈悲を持って接すべきだと悟りました。その瞬間、私に慈悲心が生まれ、それは師父によるご加持だと思いました。

 当時、私は同修に対して厳しすぎたことを深く認識しました。自分もこのように多くの人心があるのではありませんか? ただ、以前より少しましになっただけで、なぜ他人を見下すのでしょうか? このような心構えは、成金と似ていて、自分が少し良くなっただけでいい気になってしまうのです。

 また見栄や嫉妬、軽蔑などは人としてよくあることで、普遍的に存在していることではありませんか。非常に理解しやすいはずなのに、自分は境地が少し高くなって、昔と違ったからといって、まるでこのような人たちの考えが理解できなくなったかのように振舞い、この考え方こそがおかしいことなのです。これはある種の優越感であり、自分を他人と区別していることで、実際には人を軽蔑していることになります。少し旧勢力と似ています。いたるところで大法弟子を見下し、自分の境界の低さを露呈しています。

 私は法を読んで、同修それぞれに師父の法身がついており、周りには天龍八部衆もいることがわかりました。師父の法身は常に修煉者を見守り、指導し、各修煉者を非常に大切にし、無限に受け入れ、いろいろな事をしてくださいます。それから法輪と気機、機制などが修煉者の体の周りに存在しています...これらは別の空間に現れており、私たちはそれを見ることはできません。

 もし、私が他の空間にある、同修の背後にあるこれらの壮大な景色を見ることができれば、見下す勇気があるでしょうか? 私は、軽蔑の心は無神論によって引き起こされるものだと感じています。人々が神を信じない限り、傲慢で自己中心的で、他人を軽蔑し、目の前の表面だけに注目し、感情に依存し、将来や本質を見据えることができません。

 修煉者は、法理に照らし合わせて考えるべきです。私は以前から法を学んでいますが、法理に基づいて考える方法がわからず、問題に対処するときには、自分の考えや感情を頼りに判断していました。実際、師父は私たちに多くの法理を教えてくれました。いずれも目的意識もなく理解するのではなく、いつでも法理を基にして考える必要があります。私が法理に基づいて考えるようになってから、それがより本質的で、将来を見据えられる思考方法であることに気付きました。一方、人間の考えや感情などは、明らかに不足しており、現在のみに焦点を当て、将来を考慮せずに目先のことだけを見ているようでは、問題を解決できないだけでなく、かえって問題を引き起こす可能性があります。

 個人的には、私たちは師尊の偉大な願いを常に心に留めるべきだと思います。すべての生命を救うことを願い、すべての人々が大法の迫害の事実を理解し、すべての修煉者が円満成就できることを望み、このような立場から問題を考えるべきです。師父の要求通りに行い、師父の願いに反するべきではありません。よく考えてみれば、師父が見守り、悟らせ、一生懸命ご加持をしてくださり、助けている同修のことを理解せずに、相手を見下していれば、その時点で師父と反する立場にあり、旧勢力によって按排された思考形式と同じようです。この考え方は、師父に対して信じることと尊敬することを表していません。

 常人に対しても同様で、たとえ相手が如何に道徳的に欠如しており、迷っているとしても、皆高い次元から来たのであり、大法に済度されることを信じて勇気をふり絞ってきたのだと、師父の法から私は理解しています。そのため、師父は全ての人を大切にし、あらゆる機縁を手配して救おうとしています。迷いの中にある行いは、見下す「理由」にはなりません。私たちは大法弟子である以上、すべての衆生に慈悲を以って接しなければなりません。

 個人的に感じた些細なことですが、適切でないところは、慈悲なるご指摘をお願い致します。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/9/6/464871.html)
 
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