なかなか治らない癖を取り除き 全体に溶け込む
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年4月11日】私は1998年に法輪大法法輪功ともいう)を学び始めましたが、確実に実践しているとは言えず、修煉の厳粛さを理解したのは最近になってからで、まだ時間があまりたっていません。以下では、私の修煉体験を同修と共有したいと思います。

 一、なかなか治らない癖を取り除く

 法輪功を学び始める前の私は、極端な性格でした。非常に自己中心的で、同僚からは孤高だと言われ、家族からは精神的な潔癖症だと言われました。結果として、私はみんなとはかなり違っているアウトサイドという印象を周りの人に与えました。

 多くの古今東西の文学書籍を読み、頭の中はごちゃごちゃしていました。特に、当時流行していた中国の現代文学作品は、多くの観念や意識が変異、腐敗しています。それらの本を読んで行くうちに、自分の考え方や行動も腐敗していったのです。結果として、私の言葉は辛辣冷酷になりましたが、まだ自分では深く考えず一人よがりだと思っていました。思考が混乱し、善念がありませんでしたが、自分は心豊富で「心のチキンスープ」を飲んだみたいだと思っていました。

 特に印象的な出来事がありました。ある同僚はエロティックな冗談をよく言う人で、私は彼を非常に嫌っていました。ある時、彼は他の人の前で私をからかって、彼をどう思うかと私に尋ねました。私は「あなたは、ハエよりも迷惑な存在だ。ハエは季節があるが、あなたは四季を問わずに現れる!」と答えました。彼の顔は真っ赤になり、同僚たちも凍りついたように固まりましたが、私は意に介さずにそこを去りました。今思うと泣きたいぐらいです。私は彼にどれほど大きな傷を負わせ、自分もどれほど大きな語業を作ったかと思います。

 再び師父の説法を読みました。「後天的に形成された変な癖は個性ではなく、あなたの執着であり、後天的に形成されたものです。確かに自分の特徴を持っている人がいます。例えば、何をしてもてきぱきする人もいれば、ゆっくりしている人もいます。または本性においてお互いに差異があり、これはその人が本来持っているものです。何かをする時、私はこのようにするのが好きで、このようにします。このようにするのを好み、どうしてもこのようにしますという現れは、後天的に形成されたものです。これらの執着と癖を自分の個性や性格と見なしてしまうのは正しくありません。これらのことは取り除かなければなりません」。(『米国西部法会での説法』)

 私の目は説法の中のこの段落に留まり、師父が私に語りかけていらっしゃるように感じました。そして、真に内に目を向けて探したことで、長い間同じレベルに留まらせ、向上を妨げてきたこの「痼癖」(こへき)を見つけました。それはなかなか治らない癖で「孤高」というものです。これは常人が持つ偏見であり、常人の気性の表れです。修煉者にとっては良くないものであり、取り除かなければなりません。私は必ずこれを直すと決意しました。

 この痼癖の最も明らかな現れは、同修を見下すことです。学法グループに参加した時、同修を選ぶのが好きで、精進している同修と一緒に法を勉強したいが、人心が多い同修、人心を中々取り除けない同修、顕示心、闘争心が多い同修を見下します。同修と協力して真実を伝えるとき、あまり素質と教養がない同修、恐怖心が強く責任感がない同修、ノロノロと努力せず精進しない同修を見下します。 とにかく、見下すものがたくさんありました。それにより、私は修煉をまったく理解せず、また、自己陶酔していました。 後になって気づいたのは。これらの年月、同修は修煉を積んできましたが、私は人間として成すだけだったのです。

 この痼癖のもうひとつの現れは独りよがりです。 この独りよがりのせいで、自分はいつも冷静で、同修の常人の心に流されることはないと錯覚しました。 私は自分の意見を主張し、顕示心が強く そのため、多くの場合、同修と切磋琢磨すべき交流の時に、同修の意見を聞き入れず、同修の法に対する理解を軽視します。 グループで法を勉強する時、ほとんど自分の法を読む声しか聞けず、グループでの学法は参加したくありません。 真相を伝えることやその他の大法プロジェクトに協力する時、私は自分の気持ちを何よりも優先します。 長年にわたり交流する時、私は「目は開いているが、他人の方を見ている」、「口は開いているが、他人のことを話している」、「耳はいつも閉じていて、他人の意見を聞くことができない」でした。 修煉の習慣は常に外に向いていました。もし私が自分自身の問題を探し求めるとしたら、それは党文化の自己批判のような「煙幕弾」であり、私の本当の目標は、誰かを徹底的に批判する機会を見つけることです。

 独りよがりで、無意識のうちに自分の修煉の道を勝手に決めます。 私はいつも自分に小さな目標を立てて、それを達成するたびに満足してしまい、前に進まなくなります。しばらく茫然としていて、いわゆる調整をしてから、ようやくまた一歩踏み出すのです。そのため、修煉はとても疲れを感じ、師尊の正法のプロセスに追いつけないと感じていました。今思えば、本当に恐ろしいことです。実は、私はずっと師尊が用意してくださった修煉の道を歩んでおらず、旧勢力の安排によって妨害され、精進することができず、自我を捨てられなかったのです。

 法を学ぶことによって、自分が執着していたものは何ものでもなく、思想業力が生じる要因であり、旧勢力に絶えず隙につけ込まれている執着心であることに気づきました。私は発正念を強化して、それらの腐敗したものを一掃し、毎日、発正念に専念する時間を確保しました。同時に、同修と一緒にいる時、常に自分に言い聞かせています。「腰を低くして、低くして、私は実際の修煉に不足している人間。師尊は私を見捨てず、修煉の機会を与えてくださいました。この機会を大切にし、同修を大切にして、本当の修煉を再開する。いわゆる狭量でエゴイスティックな人生観を捨て、持つべき純粋な真、純粋な善、純粋な美の内なる境地を修める」

 師父はこのようにおっしゃいました。「それを認識したこと自体は向上です。それを取り除き、または克服し、弱めることによって最後は完全にそれを取り除くのです。この過程はつまり絶えず向上しているのであって、生命の根本的な変化でもあります」。 (『各地での説法四』 「二〇〇三年アトランタ法会での説法」)

 今、私は観念を変え、内側に目を向け、探していくうちに、修煉するようになり、修煉状態も変わりました。学法グループのある同修が私の問題点を指摘した時、私の話をすべて否定しひどい話をしたことがありました。その時、私は別の同修と話していた時、声が震え、呼吸が乱れていたのですが、我慢してただ黙って何も言い返しませんでした。 その後、改めて考えてみると、本当に何でもない小さなことだと感じました。真実を語る時に、量を決めず、ただ全力、心を尽くして話します。その場しのぎではなくはっきり説明し、いい加減にしません。一人に真実を語るたびに、救われた人たちの代わりに、心の中で静かに師父の慈悲深い救いに感謝いたします!  時には2時間以上も真実を話し、知らず知らずのうちに20人以上を「脱退」 (邪党を脱退・団・隊組織)させました。

 観念を変えてから、以前、同修を見下し、矛盾に直面したくないために離れた学法グループに戻りました。同修たちはみんなとても精進していて、勤勉で、修煉がよくできていることを発見しました。以前私は、中断していた学法グループの再開を率先してコーディネートしました。その時このグループの修煉状態は遅々として進まず、自分でも彼女たちを助けることができず、また彼女たちに影響されるとさえ感じていました。今では、彼女たちは皆しっかり実修していて、無私で、自分は本当にこれらのものが欠けていることに気づきました。修煉の中で、本当に自分を放下することこそ、収穫があると感じました。

 二、心性を修煉し、全体に溶け込む

 以前、同修から法会への投稿について話されたことがありました。皆が参加すべきで、自分は書きたいので整理を手伝ってほしいと言われましたが、私は「修煉があまりできていない」「書くことがない」などと言って断ってしまいました。

 しかし、今年になって私の考えは変わりました。同修の言っていたことは正しかったと気づいたのです。法会は大法弟子の最も厳粛で殊勝な集結であり、宇宙空間の多くの生命が注目しています。大法弟子である私たちが、自分たちの法会に積極的に参加しないなら、私たち世界の衆生はどれほど失望することでしょうか! そこで、私は同修たちに投稿を呼びかけ、自分もしっかりと原稿の整理を手伝うことを表明しました。

 同修の原稿整理を手伝う過程で、私は多くの妨害に遭遇しました。具体的には、転倒により腰をひどく痛めてしまったのです。私は痛みをこらえて同修の原稿整理を手伝い、彼らに確認し、何十回と修正を重ねました。中には、自分で原稿を書いたものの、ただの帳簿みたいになっている同修もいました。また、法会への投稿が初めてという同修は、言いたいことがたくさんあってまとまらず、重点がどこにあるのか分りません。少し整理が遅くなると、私に文句を言う人もいました。このような過程の中で、私は同修を見下す心、イライラする心、見栄っ張りな心、恨み心などを修煉し、心の容量を広げ、積極的に同修と協力するように心がけました。同時に、自分自身を振り返り、内省(ないせい:内に向かって探す)の機会を逃さないようにしました。

 同修たちの投稿を支援する中で、私は彼らの修煉の道のりがいかに険しいものであるかを目の当たりにしました。家庭で大きな魔難に直面しながらも、初志貫徹し、大法への正信を持ち続けている同修、全身全霊を法に溶け込ませ、俗世にありながらも考えが方外にある同修、黙々と修煉に励み、目立たないながらも着実に精進している同修もいます。私は、同修たちの精力を専ら真実を伝え、人々を救うことに使い、他のことに影響しないようにするために、私は限られた時間の中で精一杯原稿をまとめ、彼らの都合に合わせて確認を行いました。

 しかし、その過程で私は自分の筆力の不足を痛感しました。もちろん、根本的には修煉不足なのです。同修たちは、自分の受けた感銘をより正確に表現するのを手伝ってほしいと頼んだことがありますが、私はそれを完全に理解することができませんでした。同修たちの修煉の境地を十分に理解できないこと、そして党文化の影響によって、表現は現在のレベルにとどまってしまいました。これは、私が今後修煉していく中で、あらゆる面で向上していく必要がある課題であり、執着心を捨て去るべきものです。同修たちの投稿を手伝うことは、私にとってかけがえのない修煉の機会となりました。

 師父の保護と、ご加護がなければ、私はこれまで乗り越えてきた数々の魔難や試練を乗り越えることができなかったでしょう。每回の試練は、私を師父に近づけ、法に溶け込ませるためだと感じさせてくれます。

 大法弟子の一人一人が、自身の修煉の道を歩み、自分の誓いを果たしています。一層一層、下へ降りる中で起こる何千もの物語は、他の人には知る由もありません。同修となり、聖縁を結んだことは、何よりもかけがえのないものです。共に精進しましょう。

 修煉の道のりはどれほど続くのか? 私には分かりません。しかし、師父が前方で導いてくださっていることを信じて、私はただひたすらに前へと進んでいくだけなのです。

 (責任編集:林一平)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/2/19/472395.html)
 
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