文/中国の青年弟子
【明慧日本2024年1月4日】私は正式に大法を修煉し始めて間もない青年弟子です。修煉を始める前、私は仕事において、忍耐力と責任感があり、比較的慎重に取り組む人間でした。修煉を始めてから、仕事に対する執着心に気づき、最近の修煉過程でその理解がさらに深まりました。
最近、仕事の中で細かい点が時折私の頭に浮かび、どう処理すれば良いのか、どのようにやればより効果を高めることができるかなど、さまざまな考えが頻繁に浮かび上がってきました。さらに、法を学び煉功し、正念を発する時にも時折浮かび上がり、すでに妨害となってきました。
内に向けて探すと、自分にとても強い顕示心、名を求める心、自分を実証しようとする心、さらに「現代の観念と行為」が存在し、後天的に形成された観念の中で一部の常人のものを良いものとして受け入れ、それによって無意識にそれを追求していることを認識できました。私は常人の仕事環境で、人々から専門的なスキルが強いと見なされています。その過程で他人からの称賛や褒め言葉を好む心が芽生え、仕事を成功させた後に得られる認められたと思う心と満足感が芽生え、潜在意識の中で、これらを楽しんでいました。法理上正しくないと認識していましたが、その状況になると制御し難く、その顕示心が強く現れてきました。
以前は法に対する理解が浅く、名利情の中の「名」に対しては、人から抜きん出ることだけが名だと考え、自分にそのような考え、心はないと思っていました。しかし、学法が深くなり、同修との交流を通じて、自分の過去の認識は非常に浅かったことに気づきました。私が考えていた、存在しない名を求める心は実際、なかったのではなく、存在していました。ただ私が求める名がそれほど強くないもので、私自身の好み、個人の意向、および概念を持っていただけで、隠れていたため、気づいていなかっただけでした。私は徐々にそれを掘り下げていく過程で、自分が何をするにしてもその背後にこの潜在的な名を求める心があることに気付きました。その現れとして、私が何かをした後、無意識に他の人がそれを見た時にどのような考えを抱くか、異なる人が見た場合にどのような反応をするのか、他の人がどのような気持ちや感情を抱くかを推測し、連想してしまうことでした。それは既に潜在的な自然な反応になっていて、多くの場合、一瞬だけのものなので、あまり深刻に受け止めていませんでした。以前は、他人の考えを感じるこのようなことは気配りがあり、相手の気持ちになって考える現れで、すぐれたものだと思っていました。今になって、やっとこの気配りの背後に名を求め、面子を求める心があることに気づきました。
師父はこう説かれました。「人に良いと言われたい、人に褒められたい、尊敬されたい、あなたの見栄えを損なういかなることも恐れているため、このような心理状態が生じました。つまり虚栄心で、執着です。人間の面子を大事にする心も相当強いのです」(『オーストラリア法会での説法』)
私もまさにそうではないでしょうか。常に潜在意識のなかで、他人がこのことをどう見るか、私に対してどのように見るのか、自分に対して何らかの影響を与える可能性があるのではないか、私は自分自身にどのようなイメージを築いたのかなどを考えています。
このように掘り下げていくと、私は本当に驚きました。自分の名を求める心がこれほど強いとは思っていませんでした。そのため、日常の仕事や振舞いで常に顕示心が伴っていました。気づいたら、その都度、それを取り除くべきです。その念が浮かんでくるたびに、私はそれを否定し、抑制しました。徐々に効果が現れ、その心は弱まっていますが、それでもなお時折、勢いを増すことがあります。
最近のある朝、母と一緒に煉功した後、母が私の仕事に対する執着心について話し始め、私にあれこれの心があるのではないかと分析してくれました。最後に母は一言「天の功を自分の手柄にするのではないか?」と言いました。この「天の功を自分の手柄にする」という言葉が私を目覚めさせました。私は心の中で思いました。そうだ、私は一貫して、私が持っているすべての能力は大法によって授けられたことを深く知っていました。基準に合致したら、賜物を得ることができたと思っていました。
常人のなかの仕事と職位はすべて大法によって切り開かれたものです。大法弟子はただ弟子としての役割を果たし、妄念を生ぜず、その中で大法を実証することこそが重要であり、これがすべてのことの出発点であり目的です。すべては大法が行っており、すべては大法によって切り開かれています。しかし、私は自分が人間のなかで少し成就していることにうぬぼれ、自分がえらいと思い、自分の成し遂げたことを自分自身がやったと思い込んでしまい、本当に自分が他の人よりも優れていると考え、自分自身をえらいと信じてしまっていました。これはまさに「天の功を自分の手柄にする」行為です。
母からその話を聞いた後、私は正念を発し始めました。正念が発せられるにつれ、私は自分の傲慢にますます気づき、自分自身ではないものを見出し、それらの良くない物質を滅しました。この過程で、自然に頭を下げるようになりました。それは心からの謙虚さと尊敬です。私は、この心を持ち、仕事や生活のなかのすべてに対して無限の敬意と慎重さをもって接するべきであり、経験が増えるにつれて物事を軽く考えず、ますます傲慢になり、本質を忘れるようになってはならないと理解できました。
私は、自分を謙遜し、頭を下げることで逆に高大になり、内面が非常に広がったような感覚が生まれるのは、師父と大法が私の心の容量を拡大してくださった結果であることを感じました。
弟子の少しの変化もすべて、師父の無限の知恵による按排と心から尽くされた指導から離れることはありません。弟子は全力を尽くし続け、師父が按排された道を一生懸命に前進し、世に下りてくる時の使命を忘れずにいるようにします。
以上、現段階での個人の悟りです。不適切なところがあれば、同修のみなさんからのご指摘をお願い致します。