文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年1月20日】修煉者として、いばらと困難に満ちた天に帰る道で、勇敢に闊歩する人もいるし、つまずきよろめきながら進む人もおり、艱難の中で落ち込む人もいます。根本的な執着を手放さず、常人でいる人もいます。このような違いが生じる主な原因の一つは、真の修煉が足りていない、あるいは修煉の方法が分からない、または道理を理解するだけで、実践方法や、どのように修めるのが真の修煉であるのかががわからないということです。師父は「做すところ到るは是れ修なり」(『洪吟』「実修」)とおっしゃいましたが、実践しないことは修煉ではありません。
今日に至るまで、正法の修煉において、個人的に接触し、あるいは了解した修煉者の中で、「代償を払えばその分だけ得る」(『轉法輪』)の法を切実に理解し、それを実践し続けることができる人はほんの一握りです。煉功を例にとると、「7・20」以前の期間はカウントせず、「7・20」以降の24年間、9000日弱の昼夜で、自分は何パーセントの功を煉ったのでしょうか? 10点満点で点数をつけるとしたら、自分をどう評価しますか? 学法や発正念、人を救うための真実(迫害の実態)を伝えることにどれだけ捧げてきたか、自問してみてください。
ある同修は夢の中で、非常に長い2匹の虫が別の同修の耳の穴から押し出されるのを見ました。そして、その数日間何をしたのかと尋ねると、その同修は自分の主意識が弱いと感じたと言い、『轉法輪』の「主意識を強くもつべし」という節を何十回も暗記し、すでに数日間暗記したといいました。これで、毎日1回の暗記と、10回、100回とは全く違うことがわかります。
現代科学の観点から見ると、明慧ネットに「共振:科学が発見した自身の免疫力を高める人体の秘密」という文章があります。この文章は、「佛」という言葉の正しい響きが、別次元のエネルギーとつながり、宇宙の高エネルギーと共鳴することを意味する」と書かれています。このことを理解すると、古来より修行者が行ってきた読経、呪文を念ずる、祈祷といった行為は、正しい思考、音、文字によって、宇宙の高エネルギーと共鳴しているのではないかと思います。言い換えれば、人間の思考や言語は宇宙の高レベルのエネルギーに接続し、相互作用をすることができるのです。感情は健康に影響を与え、人体の DNAと細胞は宇宙のエネルギーと共鳴することは可能です。良いエネルギーと共鳴すれば、体は良い健康状態になりますし、その逆も同様です。我々が心からの 九文字を真摯に唱えると、体と心は良い宇宙エネルギーと共鳴し、平和と調和を生み出すことができます。真・善・忍に符合した状態では、宇宙のポジティブなエネルギーに支えられた人体は、強い免疫力を獲得し、伝染病やパニック、絶え間ない不安から自然に解放されるでしょう。
法の中に答えがあり、師父はすでに明示しておられます。「釈迦牟尼は正念を重んじています。自分が修煉しているその法門の世界を本当に震動させるほど、一心不乱に読経して、はじめて覚者を招くことができます」(『轉法輪』)。どの門派のお経を読んでも、どの門派の世界を振動させることができ、これはどれほどの力なのでしょうか? では、私たちが学法や法の暗唱するとき、大法に共振し、共鳴しているのではないでしょうか? 学法と法の暗記を続ければ、それは大法に同化することになります。私たちは法を心から尊重し、法に従って、真に修煉する自分の意志を絶えず修正し、自ら真・善・忍に同化する堅固な志を持ち、何も求めず一心不乱に精進すれば、大法の無限の力は、ミクロ的なものからマクロ的なものに至るまで、私たちの心、体、生命のあらゆるものを絶えず浄化していきます。
個人的な理解ですが、修煉の過程で、自分の執着が見つからず、問題はどこにあるのか分からず、長い間困難に陥った場合でも、落ち込まなければ、大法は私たちに知恵を与え、内に向け非を探す方法を教え、何が問題なのかを悟らせてくれます。全ては法の中にあります。代償を支払うことは、着実に修煉の一部であり、一面であり、一種の現れであり、着実な修煉の見証でもあります。
また、こんな現象もあります。艱難の中で、執着心を一通り洗い出しても、状況は大きく改善されることはなく、多くの場合、その人は自分が正しく見つけられていないと思い、さらに一通り探しても状況は変わらないのです。実際、問題の所在を見つけたかもしれませんが、十分な努力をせず、十分に修めていないので、悪い物質を一度に取り除くことはできないのです。
師父は「煉功者は一人一人大きな苦しみに耐える用意、大きな困難を迎える決意と気力を持ってください。代価を支払わなければ、本当の功を得ることはできません。代価も支払わず、苦しみを嘗めることもせず心地よく功を得ようとしても、それはあり得ない話です」(『法輪功』「第三章 心性を修煉する」)と説かれました。
修煉の過程で、多くの人がある現象を発見しました。法を学ぶとき、法理を理解し、何をすべきか知っていますが、物事に遭遇した時、向上の瞬間に「法」を思いだすことができず、自分を煉功者とみなすことができません。個人の既存のレベルでは、十分な努力をしていないことが主な理由であり、普段、この方面の意識を強化する取り組みはしていないと考えています。以前、私はただ法理から、対立する相手が、私たちの心性を向上させ、業力を転換するために師父が按排してくださったことを知り、その人に感謝すべきであると知っていますが、関を乗り越える際に、それを思い出すのも難しく、あるいは素直に感謝を言えないのです。そしてある日、ふと内心ではっきりと悟りました。相手は師父が私たちを成就させるために遣わした天使であり、私にとって貴人でもあり、本当にその人に感謝すべきです。このような理解は、これまでの法理上で限定された理解とは全く異なり、まるでこうあるべきで、相手に感謝しないのは異常であるかのようです。実際、よく修めたいなら、それはそれほど難しいことではなく、修めたければ、ただ努力すればよいのです。
代償を支払うとはあらゆる側面を含む、包括的なテーマであり、普段の努力にかかっています。例えば、あらゆる思考をキャッチし、その背後にある動機をたどるために、自分自身を意識的に強化します。物事が起こったとき、あわてて解決しようとせず、私的な観点からどう対処するか、次に他人のための観点からどう対処するかを考え、時間が経てば、自然と他人のためのメカニズムが形成されます。本質的な変化を達成するには、時間をかけ、積み重ねた努力が必要です。諺にもあるように、努力は神から報われます。努力は着実に修煉の基礎であり、自分自身をしっかりと修めるには時間がかかります。
師父は「たとえいくら代価を払おうとも、圓満成就する時には必ず、それ相応のものが得られるのです」(『精進要旨(二)』「最後の執着を取り除こう」)
「(冬の)寒さが一度骨身にしみなければ、どうして(春の)梅の花の香がプーンとし得るものか」。同修は法の中で、しっかりと三つのことを行い、何も求めず、絶えず努力すること、そうすれば「ある日突然、身が軽くなることを覚え、コツを悟るのです。現在、鳳凰が翼を広げるように、世界で活躍している」(『洪吟五』「神韻の出演者を讃える」)その日、その瞬間が必ず訪れます。
少しばかりの浅い悟りです、不適切なところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
(責任編集:李明)