文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年4月6日】3月13日、明慧ネットに「5.13」(5月13日を指す)の記事応募の案内が再度掲載されたのを見ました。応募する大法弟子が少ないのでしょうか? それとも、一部の同修のインターネットにアクセスするのが難しいのでしょうか? 多くの同修が困難を恐れたり、観念や人心に阻まれたりしていることを知っています。私の周りにもそのような同修がいて、私も同じです。明慧ネットに記事を投稿した私の経験について話しましょう。
学生時代、作文を書くたび、いつも頭を悩まされていました。先生からは800字書けと言われ、字数を稼ぐのに死ぬほど苦労しました。
大法を修煉した後、明慧ネットで同修が書いた交流記事や詩を見て、とてもうらやましく思い、自分も何か書いてみたいと思ったのですが、全く見当がつきませんでした。学法するにつれ、修煉の時間が長くなり、自然に修煉の体験と感想が多くあります。初めて書こうと思ったときも難しく、書きたいことがたくさんあるのに何から始めればいいか分かりませんでした。それは自身の観念に原因があることがほとんどで、いつも「自分は書けない、うまく書けない」と思い、毎回書き終わる前に挫折してしまいました。
ある時(いつの年かは記憶がない)、携帯電話を頻繁に見ていたため、身体に多くの問題が現われ、ふとそれを書き出し同修と交流したくなり、同修にこの側面に注意して欲しいと思いました。しかしどう書けばよいのか、書いたことがないのです。ある日、師父がかつて「『修は己にありて、功は師にあり』なのですから、あなたにそういう願望があれば充分です。本当にこのことをやってくれるのは師で、あなたにはとてもそういう力はありません」(『轉法輪』)と説かれたのを思い出しました。師父に加持をお願いしようと思いました。修煉者は困ったときに引き下がることはできません。
そこで、心を落ち着かせ、今までのことを思い出しました。まずは大まかなあらすじを書き、それを書き足していくという作業を繰り返しながら、断続的に書き終えました。書き終えた後、何度か読み直し、文章中に出てきた方言を標準語に修正し、何度か読んで納得した上で投稿しました。その時は文章が掲載されるかどうかは考えていませんでした。発表されるかどうかの希望も持ってなかったのです。
どれくらい時間が経ったのか覚えていませんが、突然、自分の文章が明慧ネットに発表されることを知りました。発表されましたが、さほど驚くことはなかったです。
しかし、明慧ネットの応募記事が出るたび、やはり後ろめたい気持ちがあります。昨年の「5.13」の記事応募を見て、書くかどうか迷っていたのを思い出します。ある晩、私は夢を見ました。私は教室に座っていて、みんなは何かを書いていました。多くの人はほぼ書き終えて、何人かはすでに提出していました。私はそこに座って、まだ周りを見回していました。手に持っていた紙は白い紙ではなく、下書きの紙のようで、なぜ白い紙がないのか不安でした。その後、別のショットに切り替わりました。
数日後、私は同修と交流をとり、その同修に、もしかしたら師父が作文を書くよう、掲示しくださったのかもしれないと言われました。そこで、昨年の「5.13」では、交流文章を書きました。
交流原稿を書くたび、難関を突破することになり、心を修め、向上する過程でもあります。怠惰な心、面倒を恐れる心、せっかちな心によって、落ち着いて書くことが出来ず、何度もその執着を抑制する必要があります。
ここ2年間、病業の関をすっきりと乗り越えられず、少し憂鬱な気分です。今年の旧正月の前日、明慧ネットの交流記事を読んでいると、昨年私が大陸法会に提出した文章の原稿に似た記事を突然目にしました。それは師父への感謝の気持ちだと思います。師父がそばにおられるのが分かり、私は涙を流しながらずっと見ていました。自分が精進していないことが分かります。そして師父はこのように私を励ましてくださいます。今回は「5.13」の記事の募集には全然迷わず、すぐにタイトルも思いつきました。(おそらく師父は私の願望を見られ、知恵を与えてくださったのかもしれません)。 とても早く書き上げ、熟考の上、何度も修正して提出しました。
言葉では言い表せないほど師父に感謝しています! 同時に、交流原稿を書かれた同修の方々、編集者の方々の尽力に感謝し、修煉の過程で同修の記事に大変助けられました。